雑記帳または /dev/null

ソフトウェア開発、哲学、プログラミング、その他雑多なものもののメモ

「永続的なもの」の恣意性

「永続的なもの」の恣意性について

契機1

論点

あるものを「これは永続的なものである」と認識した時、それが現に「永続的なもの」であるかどうか、また「永続的なもの」が現にどのような状態を意味するかが明晰判明であるかはわからない。ただし、少なくともある対象Xについて"Xは「永続的なものである」と認識している" ということは確かなことと定められるはず。そのような認識が成立するための条件は、どのようなものであるだろうか。 そして、その成立条件には、現に恣意的なものは含まれるのだろうか。

結論

Xについて「Xは永続的な/永遠的なものである」という認識が発生するための諸条件は、以下のようなものとして定立できないだろうか。

  • Xという某かについて、なんらかの形で想起されていること
  • Xという某かについて、それが実在的なものとしてにせよ観念的なものとしてにせよ、なんらかの形で現に存在するものとして認識されていること
  • Xという存在について、いついかなる時刻にあっても現に存在するという予感ないし確信、すなわち、「Xはあらゆる時刻において遍在する」という確信が抱かれること
  • Xという存在について、いついかなる時間にあっても「同じ」Xで在り続けるという確信、すなわち、「Xはあらゆる時間において連続する」という確信が抱かれること

ただし、これらは「Xは永続的なものである」という認識が発生するための条件であって、認識と切り離された「物自体」としてのXそれ自体が「永続的」であるかどうかを定めるものではない。また、あくまでそのような認識が成立するための諸条件であって、Xが現に「永続的」であるための条件ではないから、現にXそれ自体が「永続的」であるかどうかとは無関係に擁立し得るものである。

考察

"Xは「永続的なものである」と認識している"ということは少なくとも確実であるとして、そこから次に何が言えるだろうか。

第一条件

第一の条件として、"「Xは〜である」と認識している"ことが確実なら、同時にXという某かの存在が、そのような認識が生じた意識において少なくとも想起されていなければならない。 というのも、"「永続的なものである」という認識"を持つ主体の意識において、まさにXという存在について何かしらの想起がなされないことには、「永続的であるようなX」というものをその意識の内において語ることはできないからだ。Xが意識において全く想起されていないなら、「永続的」であるという認識に限らず、そのようなものについては一切の認識は抱き得ない。例えば、「ピンクの象」という存在を一切意識に上らせることなく、「ピンクの象は永続的だ」と認識することはできない。

第二条件

第二の条件として、そのように想起されたXが、それが実在的なものとしてにせよ観念的なものとしてにせよ、なんらかの形で現に存在するものとして認識されていなくてはならない。 Xという存在が"「永続的なものである」という認識"は、それ自体がXというものが何らかの形で存在することをその認識の内で前提としているからだ。現に存在しないもの、あるいは現に存在したりしなかったりするものとしてXを認識している場合、私達はそのようなXを「永続的なもの」としては認識しない。「永続的なもの」はすなわち「永遠に存在するもの」のだから、Xを"「永続的なもの」として認識する"というときには、何らかの形で現に存在するものとしてXは認識されていなくてはならないのである。

三条件

第三の条件として、「Xという存在」がいついかなる時刻にあっても現に存在するという事態が、意識において予感ないし確信されることが必要とされる。 専ら私達が何かを「永続的」ではないかと思案する時、2000年後の世界を、1億年後の世界を、無限に未来の世界を想像した時にも変わらずそれが現に存在するだろうか、という問いがなされる。この思案において、1000年や1億年や無限に未来の時代を迎えた暁にはもはや「Xという存在」は消滅しているだろうと、そのように予感ないし確信されるようなものについて、私達はそれを「永続的」とはみなさない。逆に言えば、1000年や1億年や無限に未来の時代、その他いかなる時間や時刻を切り取ったとしても常にそれが存在する、そのような事態を確信できるものとしてXが想起された時、あらゆる時刻に「遍在」するような「Xという存在」を確信できた時、私達は「Xという存在」を「永続的なもの」として認識し得る。

第四条件

第四の条件として、「Xという存在」はあらゆる任意の時間において、全く「同じ」もので在り続けることが、その意識において確信されていなくてはならない。

本を例に考えてみよう。アリストテレスの代表的著作の一つに、『ニコマコス倫理学』がある。この本は今までにも大量に同名で、同内容で、時に多言語への翻訳を交えながら、時に写本として、時に印刷によって現在まで有る種「存続」し続けていた。この状況がさらに進行し、今後あらゆる時間あらゆる時刻において、例え人類が滅ぼうと地球が消滅しようと宇宙が消滅しようと、この『ニコマコス倫理学』という本の生成は何らかの仕方で止まらず継続されるという事態を考えてみよう。このような事態が成立した場合に、ある一冊の『ニコマコス倫理学』を取り上げて「この『ニコマコス倫理学』は永続的なものか?」と問われたら、どう応じるだろうか。

この問いを、いくつかの場合に分けながら考えてみる。一つに、そのような事態にあってなお、私達は「その『ニコマコス倫理学』は永続的なものではない」と応じうる。ここで「永続的なもの」としての在り様を否定されているのは、物資的存在としての、個別の一冊の具体的な書籍としての「『ニコマコス倫理学』という本」である。そうした個別の本は時間経過と共に色あせ、崩れ、「本」としての物理的形態を維持できなくなり、最終的に本という存在としては「消失」する。故に、私達は一般に、物質的存在に対してはその永続性を認めない。先のような事態が成立した場においてもなお、私達は個別で物質的な「その『ニコマコス倫理学』」について、それは「永続的なもの」ではないと認識し得るし、現に認識するだろう。

一方で、私達は全く同じ事態にあって「『ニコマコス倫理学永続的なものである」とも応じうる。ここで「永続的なもの」として認識されているのは、「この」と指示されている物質的存在としての『ニコマコス倫理学』という本ではない。そうした個々別々の物質的存在としての『ニコマコス倫理学』が帰納的に想起される、観念的存在としての『ニコマコス倫理学』である。そして、物質的存在は一般に「永続的なもの」としてはその存在を認められないのであるから、もしも「永続的なもの」として認識され得るものがあるとしたら、それはこの『ニコマコス倫理学』のような、観念的存在としてのものである。

ところで、観念的存在としての『ニコマコス倫理学』は「永続的なもの」として認識され得るが、観念的存在ならば「永続的なもの」として認識されるわけではない。観念的存在として想起された『ニコマコス倫理学』が、しかもどの時間においても「同じ」とものとして現れ存在するものとして確信されてようやく、私達は『ニコマコス倫理学』を「永続的なもの」として認識できる。何故か。先の通り、今や『ニコマコス倫理学』は人類はおろか宇宙の存在とすらも無関係に生成され続ける。その間に一度人類が消失し、いくらかの時間を経て、再び人類(あるいは、任意の知的生命体でも良い)が出現したとしよう。そうして現れたそれらが、引き続き生成され続けている『ニコマコス倫理学』を手に取り、その内容をなんらかの仕方で理解できたとしよう。この時、現在の私達が想起する観念的存在としての『ニコマコス倫理学』と、彼らが想起する観念的存在としての『ニコマコス倫理学』を、果たして私達は「同じ」と認識するだろうか?

この問いに対して、「同じ」ということが確信されたなら、しかも、現人類が滅びてから新人類が『ニコマコス倫理学』を手に取るまでにやはり現人類が滅びるより前と「同じ」存在で在り続けたと確信されたなら、そのような確信に基づいて、私達は『ニコマコス倫理学』を「永続的なもの」であるとして認識し得る。「永続的なもの」というのは、永遠に存在し続けるようなものであり、そこには「し続ける」こと、すなわち連続性が要求される。連続性無くしてそれはただの「遍在」にしかならず、その連続性は「同じ」で在り続けることによって想起される。あらゆる任意の時間において「同じ」で在り続けることへの確信があってこそ、Xについて「永続的なもの」という認識が成立可能となる。このことから、"私達の『ニコマコス倫理学』と彼らのそれは「同じ」か?"という問いについて「同じ」ではないと応じるなら(もちろん、そのように応じることも可能である)、その認識においてはもはや任意の時間において「同じ」であるという確信は存在していないので、その場合には『ニコマコス倫理学』は「永続的なもの」として認識されていないし、認識し得ない2

「永続的なもの」であるという認識の諸条件についてのまとめ

以上が、あるXについてXが「永続的なもの」であるという認識が成立するための諸条件とその根拠である。

  • Xという某かについて、なんらかの形で想起されていること
    • Xがなんらかの形で想起されていなければ、"Xは「永続的なもの」であるか"という問うことすらできず、問題の認識を抱くことすらできない
  • Xという某かについて、それが実在的なものとしてにせよ観念的なものとしてにせよ、なんらかの形で現に存在するものとして認識されていること
    • Xが「永続的なもの」であるとするなら、そこには「永続的なもの」として現に存在するXが、実在的にせよ観念的にせよ、少なくともその意識に於いて認識されていなくてはならない
  • Xという存在について、いついかなる時刻にあっても現に存在するという予感ないし確信、すなわち、「Xはあらゆる時刻において遍在する」という確信が抱かれること
    • ある時刻において現に存在しないことが有り得るような、またそのような事態が想起されるようなXについて、私達はそれを「永続的なもの」とは認識しない
  • Xという存在について、いついかなる時間にあっても「同じ」Xで在り続けるという確信、すなわち、「Xはあらゆる時間において連続する」という確信が抱かれること
    • 時間の前後で「同じ」でなくなってしまうような、またそのような事態が想起されるようなXについて、私達はそれを「永続的なもの」とは認識しない

「永続的なもの」の恣意性について

Xが「Xは永続的なものである」として認識されるための条件が上記の通りであるとするなら、「永続的なもの」という認識はア・プリオリな認識としては成立しないと考えられるだろう。

Xが「永続的なもの」として認識されるためには、少なくとも1つの想起と3つの確信が必要である。1つの想起については、単に「Xは永続的なものであるか?」と問えば、少なくともそのような事柄をXについて考えるという形でXは想起できるから、その条件は特に問題なく達成できるだろう。しかし残りの3つについては、その認識主体が「永続的なもの」であるものとしてXを確信できるかどうかに全く依存している。そしてその依存の仕方は、専ら経験に依って立つと思われる。

例えば神の永続性について、敬虔なキリスト教徒であるならば、現に存在し、かつあらゆる時刻に遍在し、かつあらゆる時間において同一で在り続けるような存在としての神を確信できるだろう。そのキリスト教徒にとって、少なくともその者の認識に於いて、神はまさに「永続的なもの」として認識される。一方で、そのような神の存在を信じられない人にとって、たとえば神の連続性は認めるが遍在は認めない者、神の遍在は認めても連続性は認めない者、果は神の存在そのものを認めないものにとっては、少なくともその者の認識においては、神は全く「永続的なもの」としては認識されないし、され得ない。その者の認識においては、神は時に存在しないかもしれず、時に別の存在とすり替わっているかもしれず、あるいはそもそも現に存在しない妄想ないし空想でしかないかもしれず、そのようなものを「永続的なもの」とは認めないだろう。

このことから、「永続的なもの」というのは、そのような認識が成立する条件において観測者の恣意性が必然的に含まれる。よって、「永続的なもの」というのは原理的に恣意的なものでしかありえないのではないか。


  1. 一通り書き上げてから、そもそもの命題を盛大に読み違えていた可能性に気づいたが、とりあえず契機と考えたことはわける形で済ませた

  2. さらに観念的存在としての「同じ」さがどのように認識されるのか、「同じ」という認識の成立可能性は何によってもたらされるのかという問題も存在する。この点もまた一つ重要な問題である(あるいはこの点こそ最も重要な問題である可能性もある)ことは認めつつも、これ以上の考察の肥大化と、筆者の能力限界へ到達することによって考察全体が停止してしまう点を回避する意味で、今回は一旦、そこには踏み込まずにおく。

View, Role, Entity, 現象学的還元

発端

現象学的還元み」について、一見して「なるほどそれらしいな」という気はしたが、何がどう「それらしい」のかとっさに言葉として出てこず、またその「それらしさ」が実際妥当と感じた根拠もよくよく考えると不明瞭だったので、実際に還元してみるテスト。

結論

View や Role を「観察者にとって確実なもの」として、そこから導出される(だろう)Entityを仮説とする考え方は、ViewやRoleといった現象から出発して、構成的内在として成立するようなEntityと、Entity によってさらに構成される構成的内在としてのViewやRoleを導出したものとして捉えられるのではないか。そのように捉えるなら、確かにこれは「現象学的」と呼べそうだ。

還元

例えば「優良顧客」というものがあり、それを取り扱うシステムを考えるというシチュエーションを考える。「優良顧客」というもの、それ自体の実在や確実性を当面カッコに入れた時、すなわち「優良顧客」というものが妄想でなく現に存在するかどうかや「優良顧客」という捉え方が確実普遍かそうでないかなど、「優良顧客」それ自体に対する一切の判断を保留した場合、少なくとも確かに残るものとして、"私達が「これは優良顧客である」と認識できると考えるような何かしらを、私達は認識している"ということが言えるだろう。

その認識の始まりとなる経験1が、「優良顧客」と呼ばれる人を現に目の当たりにした(感覚した)ことだったにせよ、そのような状況を想像するという空想だったにせよ、脳髄2へ送られた「そのように考えよ」という電気刺激3だったにせよ、"私達が「これは優良顧客である」と認識できると考えるような何かしらを、私達は認識している"という事態に違いは無い。

私達が認識している何かしらの存在が確実であるかどうか(妄想や電気刺激の結果ではないか)や、その認識対象について「これは優良顧客」であると認識することが確実普遍なものであるかは、依然として不明である。しかし、"私達が「これは優良顧客である」と認識できると考えるような何かしらを、私達は認識している"ことを確実なものとして認めるなら、少なくともそのような認識があること、そこには"「これは優良顧客である」と認識できる"という認識が含まれていることもまた、確実なものと言って良いだろう。

確実なこと、しかじかのような認識。そこには、"「これは優良顧客である」と認識できる"という認識が含まれている。このことから何が言えるだろうか。

  1. 個別の何かしらについて、私達は「これは優良顧客である」と認識できること
  2. そこには「これは優良顧客である」という認識が含まれていること
  3. その認識には、「優良顧客」という概念が含まれていること

何かしらの実在、「これは優良顧客である」という認識の確実性と普遍性、そこに含まれる「優良顧客」という概念の確実性と実在性、いずれも未だ不明であり何一つ確かではない。しかし、"私達が「これは優良顧客である」と認識できると考えるような何かしらを、私達は認識している"という確かな事柄から、少なくとも、このような認識と概念が私達の意識において想起され認識されていることは、疑い得ない確実なことと言って良いだろう。

こうして「優良顧客」という概念が私達の意識に想起され認識されているということを確かめた上で、引き続き何が言えるだろうか。

  1. 「優良顧客」という概念は、「優良な顧客」として、すなわち「優良」という認識を伴った「顧客」として、構成されている
  2. 「優良顧客」という概念は、そこに「顧客」という概念を前提としており、「顧客」の中でもとりわけ「優良」なものとして認識されたものが、そう呼ばれる

このように考えるなら、「優良顧客」という概念はそれ単体で簡潔したものではなく、その背後に「顧客」という概念と、さらに個別の「顧客」に対する「優良である」という評価(という認識)が付与されていることがわかる。

ここで私達が「顧客」と認識するものは、ア・プリオリに「顧客」なのだろうか。すなわち、それは認識以前に必然的に「顧客」であり「顧客」以外ではありえないような存在なのだろうか。そうではない。私達が「顧客」と呼ぶものは、時として「組織」であり「個人」であり、時として「勤め先」であり「家族」であり、時として「競合」であり「上司」である。「顧客」という認識はこれらのすべてと両立可能であり、同時に、これらは全て「顧客」という在り方無しに成立可能である。 したがって、「顧客」はア・プリオリに「顧客」ではない。よって、「顧客」とは一つの認識であり、「顧客」として私達が認識する故に「顧客」なのである。それは、「顧客」とは私達が何かしらの対象に対して与えた Role であると呼び替えても良いかもしれない。

「優良顧客」を構成するもう一つの概念、「優良」についても同様のことが言える。「優良顧客」は、ア・プリオリに「優良」なのではない。この「優良」も、同様に私達がある「顧客」に対して与えた認識でしかない。私という個人ないし私達という組織に対して「優良」な「顧客」は、他の個人ないし組織からしてみれば「厄介」な存在かもしれない。私ないし私達から見て「厄介な存在」は、他の個人ないし組織にとってこの上なく「優良」な存在かもしれない。「優良」であるかどうかということもまた、特定の認識によって外部から与えられる特徴ないし「属性」に過ぎない。

かくして、私達は「優良顧客」という認識についての確かな事柄を出発点として、それを構成するいくつかの要素を獲得したこととなる。

  • 何かしらの存在。それは個人や組織など、いくつかの在り方が可能である。
  • その「何かしら」に対して、私達が自らの認識を通じて与える「顧客」という役割
  • 個別の「顧客」に対して、私達が自らの認識判断を通じて与える「優良」という属性

これがまさに Entity であり、そこへ私達があてはめる Role であり、そこに私達が見出す Attribute であり、また「優良顧客」は Entity と Role / Attribute を現に結合して構成した View である、という風に捉えられるだろうか。

まとめ

ある存在が「優良顧客」であるというのは、私達の認識においては「事実(Fact)」として認識され、まさにその認識に基づいて私達は振る舞うこととなる。ただし、それが「事実」であるという認識は超越的なものである。「優良顧客」という在り方は、認識している対象の存在そのものにおいてア・プリオリな在り方ではない。ある存在が「優良顧客」であるということを私達はしばしば「事実」として解するが、それは私達が内在において抱いている諸認識を超越して抱かれたものである。

「優良顧客」について、そうした超越を廃して、実際にその認識を実現するために私達が内在として構成するものを吟味した時、すなわち還元をおこなった時、以下の構成的内在が考えられる。

  • 何かしらの存在。それは個人や組織など、いくつかの在り方が可能である。Entity
  • その「何かしら」に対して、私達が自らの認識を通じて与える「顧客」という役割。Role
  • 個別の「顧客」に対して、私達が自らの認識判断を通じて与える「優良」という属性。Attribute

そして、「優良顧客」とはこのEntity/Role/Attributeを結合した結果、「(私達にとっての)事実」として得られる一つの視点、View であると考えられるだろうか。

このようにして Entity/Role/View を捉え吟味した時、その過程はまさに現象学的還元であるとするのなら、まさに冒頭の議論は「現象学的」と呼んで差し支えないと言って良さそうだ。

エンティティの方こそ仮設された仮説。これを僕はTruthと称する。Truthなんてものは常に仮説なのだ。 一般にViewとかRoleとかに見られてる方こそ揺るぎない一つのFact。こっちの方が実態として実体的。


  1. 「我々の認識がすべて経験をもって始まるということについては、いささかの疑いも存在しない。」 カント『純粋理性批判 上』篠田英雄訳, 岩波文庫, p.57

  2. 『水槽の脳』 https://ja.wikipedia.org/wiki/水槽の脳, 2021/11/20 02:28:00頃 閲覧

  3. Putnam, Hilary 『Reason, Truth And Historyhttps://archive.org/details/HilaryPutnam/mode/2up 02:28:00頃 閲覧

読書メモ - 『異本論』外山滋比古

対象書籍

各章について

「読者の視点」について

ある古典の源流となった著者自身のテキスト、究極は肉筆の原稿を「源泉」に、そこから発生した様々な解釈を「支流」に、その様々な「支流」が合流してまさに古典として成立した様を「大河」とするメタファ。 著者自身の考え・意図のみをを追求し、そこから発生した多様な解釈に価値を認めない態度を「原稿至上主義」として、批判的に評価。

初見にて、「原稿を源泉として例えながら、解釈を"古典"へ流れ込む支流として例えるのでは、位置的にも時系列的にも関係が逆転しているのではないか。これでは源泉へ支流が流れ込んでしまっている」と読み、メタファとして成立していないと考えた。

ただしこれは、"原稿"と"古典"が区別されていることを理解していなかったことによる自らの誤読である。上記のように"原稿"と"古典"を区別すれば、すなわち"古典"とは特定のいち形態をもった物理的テキストを指すのではなく、歴史の審判を経て成立した一つの現象であるとすれば上記のメタファとまさに整合するし、実際、本文はそのように書いていたものとして解するべきものであった。事実、「文学作品は物体ではない、現象である」という記述が含まれている。


ところで、このような誤読を経て疑問を抱いたのは、こうした的を外した批判、的を外した「解釈」もまた、「自由な読書」の名において肯定されるのだろうか、ということ。このような、書いていないことを読み書いていることを読まないで成される解釈は、許容されるべきなのだろうか。また、本書では以降で実際にそのように主張するのだろうか。

この時点で、自身の考えを整理する(本書の解釈ではなく、あくまで自身の考えである。本書が以降どのような主張を展開するのか、その内容について自分がどのような評価を行うのかは、まだわかっていない)。解釈と誤謬は区別されて語られる必要があるのではないか。

解釈とはすなわち「対象について、対象それ自体がどうあるかとは別に、私はしかじかのような意味づけを与える」という態度。この意味において、読者は書いていないことはおろか、否定していることすらも解釈のうちに取り込む可能性すら生じてくる。「Aが実は〜という役割をも担うことが可能だとしたなら、Aは一見して関係ないBをも解明したものとして評価できるのではないか」「〜ではAはCではないと語られているが、...のようにAを捉え直すことができるのなら、AもまたCであると評価する余地は残っているのではないか」など。重要なのは、「Aは〜という役割を担っていると著者は語っている」「Aは実はCだと著者は語っている」と嘯くのではなく、あくまでテキスト中で語られるAに対して、読者が何かしらの意味や視点を 加えている という点ではないか。

他方、誤謬とはすなわち「Aは〜という役割を担っていると著者は語っている」「Aは実はCだと著者は語っている」と語りつつ、実際にはそのような記述が存在しなかったり、あるいはその正反対のことが書かれているケース。解釈との相違点は、自らの意味や視点を加えている/加えようとしているのではなく、対象それ自体がまさにそのようなものであるとして語っている点。すなわち、テキストが指す意味内容そのものはXであると主張するが、実際には、テキストにはXではないことが示されていたり、あるいはXであると主張するだけの根拠がテキスト中に存在していないケース。

解釈と誤謬を分け隔てるのは、対象を踏まえて自ら新たに創造したものとして表明するか、対象それ自体が持つ意味内容であるとして表明するか。前者は読者に開かれてしかるべきだが、誤謬は取り除かれるべきである。先の誤読についていえば、これは本文が書いていない意味内容を以て本文の意味内容であると捉え、そしてそれによって批判したということであるから、誤謬であり誤謬に基づく批判として、排除されてしかるべきである。

解釈は読者に開かれてしかるべきというのは、本文でも語られている通り、それによってこそ源泉の可能性が開かれ大河(古典)として発展しうるからである。また別の視点として、開かれた解釈があってこそ、源泉からは思いも寄らないはるか遠方へと到達する可能性も存在するからだ。解釈を閉じてしまうことは、そうした発展の芽をことごとく摘み取ることとなりかねない。

誤謬は取り除かれるべきというのは、それは源泉から支流を生み出す行為ではなく、源泉でも支流でもないものを源泉や支流であると騙る行為だからだ。支流は源泉を発展させ大河を作るかもしれないが、誤謬は源泉や支流を濁らせる。源泉や支流に、源泉でも支流でもないものを混ぜ込む行為である。誤謬によって源泉や支流が濁れば、必然それはそれが流れ込む先を濁らせ、最後は大河すらも濁らせていく。

このように考えるならば、すなわち解釈であるからといって無制限にあらゆる態度が許容されるのではなく、あくまで誤謬は誤謬として取り除かれることを含むのであれば、自身はどちらかというと原典を重視する立場にいるが、しかし「自由な読書」を肯定し推奨する態度にはなんら異論は無いし、解釈によって源泉が大河へと発展するという論にも同意するものである。

しかし、誤謬を取り除くためには源泉が何であるかを知ることが必要である。源泉が何かを知らなければ、そこや支流に入り込んだなにかが誤謬なのか源泉なのかを判別できない。だとするならば、「読者が自己を否定して、ただ、作品に忠実にということのみを考えて読」むという行為も、畢竟必要ということになるのではないか。もっともこの疑問は、本書が批判する態度が「原稿至上主義」、すなわち源泉のみに価値を認めそれ以外はただの不純物として一顧だにしな態度に限定されているのであって、単純にあるいは素朴に「源泉重要視する」「著者の意図や目的重要視する」という態度は特段排除しないのであれば、それほど問題にはならないのだろう。

読書メモ - 現象学の理念

フッサール長谷川宏 訳『現象学の理念』p.5

「いずれにせよ、認識論が認識の可能性に目をむけようとすれば、(...)認識されていなければならない。」の範囲を、原文を比較しながら整理した。

認識論が「認識の可能性」という問題をその範囲で扱う場合に、認識論が持つ(haben)べき諸認識(Erkenntnisse)について。

  • 「それ自身として疑う余地の無い(zweifellos)認識可能性(Erkenntnismöglichkeiten)」というものについての諸認識
    • しかもこの諸認識は、最も精確な意味における(im prägnantesten Sinn)ものであり、その妥当性は、それら諸認識自らの内にある(, denen Triftigkeit eignet)ようなもの
  • 妥当性が決して疑い得ない、諸認識そのものの認識可能性(<<ihre>> eigene Erkenntnismöglichkeit)についての諸認識

認識論が認識の可能性に目を向けようとする際の、認識論が持つべき認識
認識論が認識の可能性に目を向けようとする際の、認識論が持つべき認識

ソース

@startuml 現象学の理念
hide empty members
hide circle

node 認識論 as ErkTheorie {
  [Erkenntnistheorie]
}

node 認識 as recog {
  [das Erkenntnis]
}
node 認識作用 as  LdE {
  [Leistung der Erkenntnis]
}
node 認識作用の可能性 as dMiL {
  [die Möglichkeit ihrer Leistung]
}

LdE -u-> recog : 成立
dMiL -l-> LdE : 現実に成立する可能性
ErkTheorie -u-> dMiL : 目を向ける、語る

node "それ自身疑う余地のない認識可能性についての諸認識" as recogOfAbs {
  [Erkenntnisse über Erkenntnismöglichkeiten, die als solche zweifellos sind] as __eüem

  node "認識可能性" as abs_recogOfAbs {
    [Erkenntnismöglichkeiten]
  }
  node "諸認識" as recog_recogOfAbs {
    [Erkenntnisse] as __recog_recogOfAbs
  }
  abs_recogOfAbs -u-> recog_recogOfAbs : über

  node "それ自身疑う余地のない" as EuEdasz {
    [die als solche zweifellos sind]
  }
  EuEdasz -u-> abs_recogOfAbs

  __eüem -[hidden]-> recog_recogOfAbs

  node "しかも、最も精確な意味における、妥当性のある諸認識" as uzEipSdTe {
    [und zwar Erkenntnisse im prägnantesten Sinn, denen Triftigkeit eignet] as __uzEipSdTe

    node もっとも精確(prägnantensten)な意味における as ipS {
      [im prägnantesten Sinn]
    }
    node "妥当性のある" as dTe {
      [denen Triftigkeit eignet]
    }
    __uzEipSdTe -[hidden]-> ipS
    ipS -[hidden]-> dTe
  }
  uzEipSdTe -u-> recog_recogOfAbs
}

node "もっとも精確(prägnantensten)な意味における、妥当性のある諸認識" as EipS {
}

node "妥当性が絶対に疑えないような、認識そのものの認識可能性についての諸認識" as EüieEdTazi {
  [und (Erkenntnisse) über <<ihre>> eigene Erkenntnismöglichkeit, deren Triftigkeit absolut zweifellos ist] as __EüieEdTazi

  node 諸認識 as recog_EüieE {
    [(Erkenntnisse)] as __recog_recog_EüieE
  }
  node "諸認識そのものについての(...)認識可能性" as ieE {
    [<<ihre>> eigene Erkenntnismöglichkeit] as __ieE
    [<<ihre>>] as ihre

    __ieE *--> ihre
    ihre .u.> recog_EüieE
  }
  ieE -u-> recog_EüieE : über

  node "妥当性が絶対に疑えないような" as dTazi {
    [deren Triftigkeit absolut zweifellos ist]
  }
  dTazi -u-> ieE

  __EüieEdTazi -[hidden]-> recog_EüieE
}

node "〜を持たなくてはならない" as haben {
  [muss sie ~ haben über Erkenntnismöglichkeiten\nsie = die Erkentnistheorie = 認識論]
}

ErkTheorie *--> haben
haben *--> recogOfAbs
haben *--> EüieEdTazi

@enduml


参照した資料

Die Idee der Phänomenologie | Husserl Edmund

メモ - 「怒り」について

人はしばしば、様々な事柄に対して「怒り」という感情を抱く。この「怒り」という感情は、何かしらその主体の倫理的性質に対して影響しうるのか。 例えば、「怒り」という感情をその内に抱きながら、なお倫理に正当化ないし許容される立ち位置に居続けることは可能なのか。 可能だとして、そのためには「怒り」という感情に対して、なにかしらの働きかけ(例えばその正当化)は必要なのか。

感情というものを有る種の生理現象とみなすなら、すなわち、「怒り」という感情を抱くこと自体はその当人にとってコントロール不可能なものだとみなすことは可能だろうか。 当人にとってコントロール不可能なものであるなら、そこにはもはや当人の遺志はなんら介在せず、それはもはや当人の行為ではない。単に当人の内で発生する現象である。

「怒り」が行為ではなくコントロール不可能な現象であるとして、コントロール不可能なものはその主体の倫理性に影響するだろうか。 換言すれば、コントロール不可能なものによって、その主体が倫理的に批判されたり肯定されたりすることは、妥当だろうか。

例えば、ネクロフィリアの持ち主が死体を見て、当人の意思とは無関係に生理現象として性的興奮を覚えたときのことを考えよう。また、この人物が所属する社会では、一般に屍姦は倫理に背く行為であると考えられているとする。 このような状況を考えたとき、この人物は、死体を見て性的興奮を覚えることが制御不能であったとしても、当人が実際に屍姦を行うかどうかとは無関係に、ただ「死体を見て性的興奮を覚える」ということを以て「非倫理的だ」と批判されることは妥当なのだろうか。 妥当だとするならば、その人物は、およそその社会に属する限り、実際に当人が行った行為とは無関係に、ただその現象によってのみ批判されなくてはならない。 すなわち、当人にも全くどうしようもない事によってその人物は排斥され批判されることとなるが、しかし、コントロール不可能なことがらを以て倫理的に批判することが妥当だとするならば、このような事態も肯定されなくてはならない。

ネクロフィリアのように、およそ多くの社会において忌避される例では、問題がまだ見えにくいかもしれない。 これが例えば、「猫は邪悪な生物である」と信仰されている国において、実際に猫を可愛がったり国内へ持ち込むかどうかとは無関係に、猫を「かわいい」と感じるかどうかによって批判され、ともすると断罪される状態ではどうだろうか。つまり、行為ではなくただ内心の感情、それも事前に抑制したり制御したりできないような要素によって批判・断罪されるような状況を考えてみると良いだろう。

しかるに、コントロール不可能な事柄を以て、ある主体の倫理性が変化すると考えることは、一般的に考える範囲においては1、不当であると言って良いだろう。それは内心の自由への侵犯(そのものではないが)でもある。 ある主体の倫理性は、少なくとも当人のコントロール下にある要素のみによって考えられるべきだろう。

そのように考えたなら、「怒り」という感情はコントロール不可能な現象である(とした)のだから、やはりそれで以て、その主体の倫理性が変化すると考えることは不当である。 たとえその「怒り」が発生するまでの過程が(ある視点から見て)はなはだ理不尽で不条理であったとしても、その「怒り」の発生を以てして、その主体を断罪してはならない。

ところでこれは、倫理的に振る舞うにあたり、「怒り」といった感情は正当化する必要が全く無いという結論へも帰結する。 というのも、「怒り」といったコントロール不可能なものによって倫理性が揺らがないのであれば、そうしたコントロール不可能なものが全く正当化されていなくとも、やはり倫理性は揺らがないからだ。 例えばその発生が全く理不尽で不条理であったとしても、そもそもその発生がコントロール不可能であり、理に適ったものとして発生させようと務める余地が無いのだから。

にもかかわらず、人はしばしば、自身の「怒り」を正当化しようと務めることがある、またそうしなければならないと思っているかのように見える。 個人的に顕著な例と感じているのが、他者からの批判に対する反応だ。

自身の論に批判的な指摘や反論が来たとき、「ムカつく」など「怒り」に類する感情が発生することは、必ずではないがしばしばある。 しかし、そうした「怒り」の感情は先述の通り、それ自体はコントロール不可能なものであるから、反論や批判に対して「怒り」を覚えたからと言って、自身の倫理性はなんら揺るがない。 しかし一方で、その「怒り」にまかせて批判者を攻撃したり、人格批判したりすれば、そうした行為によって自身の倫理性が損なわれる可能性はある。 この違いは、「怒り」がコントロール不可能な現象であることに対して、攻撃や人格批判は主体の意思・意図が介在する行為だからだ。 故に、自身の論に批判的な指摘や反論が来たときには、「怒り」を感じることは正当化無くいくらでもあって良いのだが、再反論などのかたちで行為を起こすときには、その行為には正当性が求められる。

しかしながら、批判に対する「怒り」を顕わにしながら、しかしその批判に対する再反論ではなく、専ら批判の「言い方」「態度」に対する攻撃を見受けることがしばしばあるように思う。 このような行為が成される機序を説明する方法の一つとして、自身を正当化するために成される「怒り」の正当化、ということを考えられないだろうか。

つまり、自身に発生した「怒り」が正当で抱いて当然なものである、なんら理不尽でも不条理でもないものである、ということを示すことで自身の倫理的正当性を維持し、 一方で、そのような「真っ当な怒り」を生じさせる原因となった批判者を「理不尽で不条理な存在」という枠に押し込める、という手法。 そしてその背景には、「怒り」という感情を抱くこと、そのような現象すらも正当性を欠いてはならないという、有る種潔癖的な倫理観が背景にあるのではないか、という仮説。

「怒り」という感情の発生自体を正当化することに成功してしまえば、相手の議論や指摘を吟味するまでもなく、「私の怒りは真っ当で必然的なものである、倫理的に問題を抱えているのは、このような怒りが発生する原因を作ったあちらである」という論法で、相手方に責を負わせようとしているのではないか。 例えばトーンポリシング的な批判は、まさにそうした「自身の怒りを正当化することで、手っ取り早く相手方に責を負わせる」というかたちで専ら使われているようにすら思う。

しかし、実際には「怒り」の正当化はなんら当人の倫理性を揺らがせないのだから、端的に言えば、特にそれによって自身の倫理性が保証されることも、相手の倫理性を突き崩すことにもならない。 むしろ、「怒り」を強引に正当化しようとしてしばしば発生する、指摘の読み替えや指摘対象のすり替えによって、自身の倫理性を返って損なうという事態もしばしば発生しているように思う。


  1. 一般的に考えなければ、「このような事態も肯定されて良い、故にコントロールの不可能性によらず断罪しても良い」という主張も可能である。コントロールの可能性とその主体が持つべき責任、という問題に一般化できるだろうか。両者間に必然性があるのか無いのか、考える余地は多く残されており、この議論だけでは端的に不十分。

知識/情報を「アップデート」することについて

「アップデート」 - 上書きと蓄積

単に「アップデート」と言ったとき、字面上は二通りの意味が想像できる。 一つは、古いものを新しいもので書き換える、上書きとしての「アップデート」。 もう一つは、古いものの上へ新しいものを追加する、蓄積としての「アップデート」。

私達が知識/情報を「アップデート」するとき、それはどちらがより実態に即しているのか。

例として、以下のようなケースを考える。 ある人からクジラという動物の存在を教えられ、それが海にいることや、その姿かたちから「クジラは魚だ」と考えたとする。 後日、他の人から「クジラは魚じゃなくて、哺乳類だよ」と教えられた、というケース。

ここでは、「クジラは魚だ」→「クジラは哺乳類だ」という「アップデート」が発生している。 このとき、「アップデート」の実態は上書きだろうか、それとも蓄積だろうか。

知識/情報は上書き可能か

仮に「アップデート」は上書きであるとした場合、私達の「クジラは魚だ」という知識は、「クジラは哺乳類だ」という知識によって上書きされた、あるいは置き換えられたことになる。 上書きされた、置き換えられたということは、私達の知識として残っているのは「クジラは哺乳類だ」ということだけであって、「クジラは魚だ」という知識は残っていないはずだ。 すなわち、「アップデート」が上書きであるならば、私達は「アップデート」前の知識については語ることも想起することすらもできないはずだ。

果たして現実は、そうではないように思われる。「クジラは哺乳類だ」という「アップデート」を経た後にも、私達は「クジラは魚か?」と尋ねてきた人に対して、次のように語ることができるからだ。 「私も最初は魚だと思っていたんだ」 「でも、実はクジラは魚じゃなくて、哺乳類なんだ」 「クジラも魚と同じように水中にいるし、形も似てるけど、動物としては魚じゃないんだ」

ここでは、「最初は魚だと思っていた」ということ、すなわち「アップデート」以前に自身が「クジラは魚だ」という知識を持っていたことについて言及している。 また、「実は〜」「クジラも〜」という語り口は、「アップデート」以前の「クジラは魚だ」という知識と、「アップデート」後の「クジラは哺乳類だ」という知識とを比較して、後者の方がより現実に即していることを語るものだ。 つまり、私達は「アップデート」を経た後でも、「アップデート」以前の知識について語ることができるし、「アップデート」前と後とで比較して語ることすらできる。

このような、そして私達が普段使っている仕方の「アップデート」を一般化してみよう。 私達は任意の対象Xについて知識Aを持ちうるが、「アップデート」を通じて知識A'を獲得しうる。 ただし、「アップデート」の後で私達はAとA'を同時に保持している。 なぜなら、「アップデート」の後であってもAについて想起したり、Aについて語ったり、AとA'を比較することができるからだ。

さて、このような「アップデート」は、上書きによって成立するだろうか。 「アップデート」が上書きであるのなら、Aは「A」として再ラベリングされたA'によって置き換えられる。 よって、「アップデート」の後に残るのはA'だったAであり、「アップデート」以前にあったAは残っていない。 残っていないAについて、なぜ私達は語りうるだろうか。 そうではなく、AもA'も同時に残っているからこそ、「アップデート」が上書きではなく蓄積であるからこそ、私達は日常のような仕方で知識・情報を「アップデート」できているのだ。

メモ - 「役に立たなさ」について

「役に立たなさ」は専ら否定的な意味で、精々が「役に立たなくても良い」という消極的な意味で用いられるが、むしろ積極的な意味として、「役に立たないからこそ良い」というかたちで、「役に立たなさ」を語ることはできないか。

「Xが役に立つ」とは、専ら、Xが何らかの具体的な利益をもたらすこと、時にはその利益に即時性があったり、あるいはその利益が大きいものであることを含意することもある。 他方、「役に立たない」は、「役に立つ」ことの否定であるとするならば、「Xは役に立たない」とは、Xが何らか具体的な利益をもたらさないこと、時にはその利益が得られるまでに時間がかかることや、得られる利益がごく小さなものに留まるものとして考えられる。

こうした意味の「役に立たなさ」を、積極的に、肯定的に評価する余地はあるだろうか。

具体的な利益をもたらさないことについて

具体的な利益と直ちに結びつけることができるという意味で「役に立つ」ことを、ここで仮に「有益性」と呼ぶこととする。 この意味で「有益的」なものは、例えば「これによってしかじかという利益が手に入る」という形で、しかじかという利益を獲得するための手段として語ることになる。

ところで、「具体的な利益をもたらす」ということの否定形は「具体的な利益をもたらさない」だが、この「もたらさない」かたちには、二つのあり方があるように思われる。

一つは、一切なんらの利益をもたらさないこと、一切なんらの利益と結びつかないこと。これを「無益性」とする。 もうひとつは、なにか具体的な利益と事前に結びつかないこと。利益と結びつけることも、逆に切断することもできること。何かしらの利益をもたらすかどうかと全く独立していて、それ故に切り離すことも接続することもできるようなこと。これを「非益性」とする。

「非益性」は、利益ではないというだけであって利益が存在できないのではなく、利益と接続することもある。しかしながら、任意の利益から切断することもできるから、利益ではない。 「利益を生まない」のでも「利益を生む」のでもない、単に、「利益でない」という意味での「非益性」。

「非益的」なものの「役に立たなさ」について

「非益的」なものは、「有益的」なものではないが故に、何らか具体的な利益とは結びつかない。なんらか具体的な利益を獲得するための手段として明晰な形では語り得ない。 しかしそれは、一切の利益と結びつきえないことを意味しない。単に、事前にその結びつきが定められていない、なんらかの利益との結びつきを自明であるかのように扱えないに過ぎない。 一方で、逆に、「これはしかじかの役に立つ」ということから切断してしまうこともできる。「これはしかじかの役に立つ」と語られていたとしても、それを全く無視して、「しかじかの役に立つ」ことがあたかも存在しないかのように語ることも可能である。すなわち、「しかじかの役に立つ」ということを前提とする必然性から解放されている。

このような意味で、「非益的」な対象は、「しかじかの利益をもたらす」という前提から全く解放されている。 例えば学問などは、こうした「非益的」な意味での「役に立たなさ」によってこそ、その価値を発揮できる側面を持ってはいないか。

選択と集中」というスローガン(ないし、有る種のイデオロギー)によって、特定の具体的利益を生み出すような、その意味で「有益的」な領域が注目される傾向にある。ともすると、そのように特定の具体的利益を生み出すことこそが「良い」ことであるかのように語られる節もある(その意味で、「選択と集中」は有る種のイデオロギーでもあるのではないか)。 しかし、学問は本来必ずしもなんらかの利益を約束するものではなく、むしろなんらかの利益に結びつくかどうかなど全く不明で、しかしその結果を事後的になんらかの利益に接続できる可能性がある、すなわちその「非益的」な性質こそが中心的なものではなかったか。 また、学問のある一領域・一分野に対してなんらかの具体的利益が強く結び付けられたとしても、すなわち「有益的」であるとしても、必ずしもそうした「しかじかの役に立つ」ことを前提とする必要がない、すなわちその利益から切断して、それ自体として独立に引き続き吟味・深化させることもできるものではなかったか。

このような意味での、すなわち「非益的」な意味での「役に立たなさ」は、積極的にそれを評価し肯定する余地があるように思われる。 そのような意味での「役に立たなさ」は、特定の利益や関心を前提とすることなく、あくまでそれ自体において発展しながら、それでいて事後的になんらかの利益を接続する余地を残し、しかもそうして見いだされた利益から再び自身を切断することもできるからだ。むしろ、こうした「役に立たなさ」を取り除いて「役に立つ」ものにしようとすると、すなわち特定の利益を直ちに導く「有益的」なものにしようとすると、こうした自由さと深遠さと柔軟さは失われ、あくまでただ特定の利益を算出するための装置と化してしまう。

装置の組み合わせで成立させられる程度にこの世界が単純であれば、あるいはその程度にこの世界が解明されているならば、それも一つの方針やもしれない。しかし現状は、それこそ私達「人間」のような存在を始めとして、そのような程度に単純とも解明済みとも思えない。 複雑な世界の中で停滞や袋小路を回避する、あるいはそこから脱出するためには、こうした「役に立たなさ」、すなわち「非益的」なものこそが重要となるやもしれない。しかしそれらは「非益的」であるがゆえ、「停滞や袋小路から脱出する」という利益すらからも自らを切断して、ただ自らの要請によって己を深化させることができる。

徹底して浮遊する、一貫して不確定がゆえの価値として、「非益的」な「役に立たなさ」は、積極的な肯定を受ける余地があり、かつそうするだけの価値があると考えられるのではないか。

「無益的」なものの「役に立たなさ」について

「無益的」なもの、すなわちあらゆる利益と事前にも事後にも結びつかない、一切の利益を提示しないようなものについて。 そうした「無益的」な「役に立たなさ」は、肯定する余地があるだろうか。

そもそもとして、そうした「無益的」なものというのは存在可能だろうか。 事前にも事後にも、一切の利益との接続を許さないとするなら、それはもはやそれ自体として必然的に「無益的」であり、厳密な意味で普遍的に「無益的」であるようなもの、すなわちカント的用法において「無益的」だとア・プリオリ認識されるようなものではないか。

参考

「非〇〇的」という用法に関して、「非意味的切断」など。

利益を即時にもたらさないことについて

WIP

即益性-漸益性

もたらす利益が小さいことについて

WIP

寡益性-多益性