雑記帳または /dev/null

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メモ - 「怒り」について

人はしばしば、様々な事柄に対して「怒り」という感情を抱く。この「怒り」という感情は、何かしらその主体の倫理的性質に対して影響しうるのか。 例えば、「怒り」という感情をその内に抱きながら、なお倫理に正当化ないし許容される立ち位置に居続けることは可能なのか。 可能だとして、そのためには「怒り」という感情に対して、なにかしらの働きかけ(例えばその正当化)は必要なのか。

感情というものを有る種の生理現象とみなすなら、すなわち、「怒り」という感情を抱くこと自体はその当人にとってコントロール不可能なものだとみなすことは可能だろうか。 当人にとってコントロール不可能なものであるなら、そこにはもはや当人の遺志はなんら介在せず、それはもはや当人の行為ではない。単に当人の内で発生する現象である。

「怒り」が行為ではなくコントロール不可能な現象であるとして、コントロール不可能なものはその主体の倫理性に影響するだろうか。 換言すれば、コントロール不可能なものによって、その主体が倫理的に批判されたり肯定されたりすることは、妥当だろうか。

例えば、ネクロフィリアの持ち主が死体を見て、当人の意思とは無関係に生理現象として性的興奮を覚えたときのことを考えよう。また、この人物が所属する社会では、一般に屍姦は倫理に背く行為であると考えられているとする。 このような状況を考えたとき、この人物は、死体を見て性的興奮を覚えることが制御不能であったとしても、当人が実際に屍姦を行うかどうかとは無関係に、ただ「死体を見て性的興奮を覚える」ということを以て「非倫理的だ」と批判されることは妥当なのだろうか。 妥当だとするならば、その人物は、およそその社会に属する限り、実際に当人が行った行為とは無関係に、ただその現象によってのみ批判されなくてはならない。 すなわち、当人にも全くどうしようもない事によってその人物は排斥され批判されることとなるが、しかし、コントロール不可能なことがらを以て倫理的に批判することが妥当だとするならば、このような事態も肯定されなくてはならない。

ネクロフィリアのように、およそ多くの社会において忌避される例では、問題がまだ見えにくいかもしれない。 これが例えば、「猫は邪悪な生物である」と信仰されている国において、実際に猫を可愛がったり国内へ持ち込むかどうかとは無関係に、猫を「かわいい」と感じるかどうかによって批判され、ともすると断罪される状態ではどうだろうか。つまり、行為ではなくただ内心の感情、それも事前に抑制したり制御したりできないような要素によって批判・断罪されるような状況を考えてみると良いだろう。

しかるに、コントロール不可能な事柄を以て、ある主体の倫理性が変化すると考えることは、一般的に考える範囲においては1、不当であると言って良いだろう。それは内心の自由への侵犯(そのものではないが)でもある。 ある主体の倫理性は、少なくとも当人のコントロール下にある要素のみによって考えられるべきだろう。

そのように考えたなら、「怒り」という感情はコントロール不可能な現象である(とした)のだから、やはりそれで以て、その主体の倫理性が変化すると考えることは不当である。 たとえその「怒り」が発生するまでの過程が(ある視点から見て)はなはだ理不尽で不条理であったとしても、その「怒り」の発生を以てして、その主体を断罪してはならない。

ところでこれは、倫理的に振る舞うにあたり、「怒り」といった感情は正当化する必要が全く無いという結論へも帰結する。 というのも、「怒り」といったコントロール不可能なものによって倫理性が揺らがないのであれば、そうしたコントロール不可能なものが全く正当化されていなくとも、やはり倫理性は揺らがないからだ。 例えばその発生が全く理不尽で不条理であったとしても、そもそもその発生がコントロール不可能であり、理に適ったものとして発生させようと務める余地が無いのだから。

にもかかわらず、人はしばしば、自身の「怒り」を正当化しようと務めることがある、またそうしなければならないと思っているかのように見える。 個人的に顕著な例と感じているのが、他者からの批判に対する反応だ。

自身の論に批判的な指摘や反論が来たとき、「ムカつく」など「怒り」に類する感情が発生することは、必ずではないがしばしばある。 しかし、そうした「怒り」の感情は先述の通り、それ自体はコントロール不可能なものであるから、反論や批判に対して「怒り」を覚えたからと言って、自身の倫理性はなんら揺るがない。 しかし一方で、その「怒り」にまかせて批判者を攻撃したり、人格批判したりすれば、そうした行為によって自身の倫理性が損なわれる可能性はある。 この違いは、「怒り」がコントロール不可能な現象であることに対して、攻撃や人格批判は主体の意思・意図が介在する行為だからだ。 故に、自身の論に批判的な指摘や反論が来たときには、「怒り」を感じることは正当化無くいくらでもあって良いのだが、再反論などのかたちで行為を起こすときには、その行為には正当性が求められる。

しかしながら、批判に対する「怒り」を顕わにしながら、しかしその批判に対する再反論ではなく、専ら批判の「言い方」「態度」に対する攻撃を見受けることがしばしばあるように思う。 このような行為が成される機序を説明する方法の一つとして、自身を正当化するために成される「怒り」の正当化、ということを考えられないだろうか。

つまり、自身に発生した「怒り」が正当で抱いて当然なものである、なんら理不尽でも不条理でもないものである、ということを示すことで自身の倫理的正当性を維持し、 一方で、そのような「真っ当な怒り」を生じさせる原因となった批判者を「理不尽で不条理な存在」という枠に押し込める、という手法。 そしてその背景には、「怒り」という感情を抱くこと、そのような現象すらも正当性を欠いてはならないという、有る種潔癖的な倫理観が背景にあるのではないか、という仮説。

「怒り」という感情の発生自体を正当化することに成功してしまえば、相手の議論や指摘を吟味するまでもなく、「私の怒りは真っ当で必然的なものである、倫理的に問題を抱えているのは、このような怒りが発生する原因を作ったあちらである」という論法で、相手方に責を負わせようとしているのではないか。 例えばトーンポリシング的な批判は、まさにそうした「自身の怒りを正当化することで、手っ取り早く相手方に責を負わせる」というかたちで専ら使われているようにすら思う。

しかし、実際には「怒り」の正当化はなんら当人の倫理性を揺らがせないのだから、端的に言えば、特にそれによって自身の倫理性が保証されることも、相手の倫理性を突き崩すことにもならない。 むしろ、「怒り」を強引に正当化しようとしてしばしば発生する、指摘の読み替えや指摘対象のすり替えによって、自身の倫理性を返って損なうという事態もしばしば発生しているように思う。


  1. 一般的に考えなければ、「このような事態も肯定されて良い、故にコントロールの不可能性によらず断罪しても良い」という主張も可能である。コントロールの可能性とその主体が持つべき責任、という問題に一般化できるだろうか。両者間に必然性があるのか無いのか、考える余地は多く残されており、この議論だけでは端的に不十分。