雑記帳または /dev/null

ソフトウェア開発、哲学、プログラミング、その他雑多なものもののメモ

「永続的なもの」の恣意性

「永続的なもの」の恣意性について

契機1

論点

あるものを「これは永続的なものである」と認識した時、それが現に「永続的なもの」であるかどうか、また「永続的なもの」が現にどのような状態を意味するかが明晰判明であるかはわからない。ただし、少なくともある対象Xについて"Xは「永続的なものである」と認識している" ということは確かなことと定められるはず。そのような認識が成立するための条件は、どのようなものであるだろうか。 そして、その成立条件には、現に恣意的なものは含まれるのだろうか。

結論

Xについて「Xは永続的な/永遠的なものである」という認識が発生するための諸条件は、以下のようなものとして定立できないだろうか。

  • Xという某かについて、なんらかの形で想起されていること
  • Xという某かについて、それが実在的なものとしてにせよ観念的なものとしてにせよ、なんらかの形で現に存在するものとして認識されていること
  • Xという存在について、いついかなる時刻にあっても現に存在するという予感ないし確信、すなわち、「Xはあらゆる時刻において遍在する」という確信が抱かれること
  • Xという存在について、いついかなる時間にあっても「同じ」Xで在り続けるという確信、すなわち、「Xはあらゆる時間において連続する」という確信が抱かれること

ただし、これらは「Xは永続的なものである」という認識が発生するための条件であって、認識と切り離された「物自体」としてのXそれ自体が「永続的」であるかどうかを定めるものではない。また、あくまでそのような認識が成立するための諸条件であって、Xが現に「永続的」であるための条件ではないから、現にXそれ自体が「永続的」であるかどうかとは無関係に擁立し得るものである。

考察

"Xは「永続的なものである」と認識している"ということは少なくとも確実であるとして、そこから次に何が言えるだろうか。

第一条件

第一の条件として、"「Xは〜である」と認識している"ことが確実なら、同時にXという某かの存在が、そのような認識が生じた意識において少なくとも想起されていなければならない。 というのも、"「永続的なものである」という認識"を持つ主体の意識において、まさにXという存在について何かしらの想起がなされないことには、「永続的であるようなX」というものをその意識の内において語ることはできないからだ。Xが意識において全く想起されていないなら、「永続的」であるという認識に限らず、そのようなものについては一切の認識は抱き得ない。例えば、「ピンクの象」という存在を一切意識に上らせることなく、「ピンクの象は永続的だ」と認識することはできない。

第二条件

第二の条件として、そのように想起されたXが、それが実在的なものとしてにせよ観念的なものとしてにせよ、なんらかの形で現に存在するものとして認識されていなくてはならない。 Xという存在が"「永続的なものである」という認識"は、それ自体がXというものが何らかの形で存在することをその認識の内で前提としているからだ。現に存在しないもの、あるいは現に存在したりしなかったりするものとしてXを認識している場合、私達はそのようなXを「永続的なもの」としては認識しない。「永続的なもの」はすなわち「永遠に存在するもの」のだから、Xを"「永続的なもの」として認識する"というときには、何らかの形で現に存在するものとしてXは認識されていなくてはならないのである。

三条件

第三の条件として、「Xという存在」がいついかなる時刻にあっても現に存在するという事態が、意識において予感ないし確信されることが必要とされる。 専ら私達が何かを「永続的」ではないかと思案する時、2000年後の世界を、1億年後の世界を、無限に未来の世界を想像した時にも変わらずそれが現に存在するだろうか、という問いがなされる。この思案において、1000年や1億年や無限に未来の時代を迎えた暁にはもはや「Xという存在」は消滅しているだろうと、そのように予感ないし確信されるようなものについて、私達はそれを「永続的」とはみなさない。逆に言えば、1000年や1億年や無限に未来の時代、その他いかなる時間や時刻を切り取ったとしても常にそれが存在する、そのような事態を確信できるものとしてXが想起された時、あらゆる時刻に「遍在」するような「Xという存在」を確信できた時、私達は「Xという存在」を「永続的なもの」として認識し得る。

第四条件

第四の条件として、「Xという存在」はあらゆる任意の時間において、全く「同じ」もので在り続けることが、その意識において確信されていなくてはならない。

本を例に考えてみよう。アリストテレスの代表的著作の一つに、『ニコマコス倫理学』がある。この本は今までにも大量に同名で、同内容で、時に多言語への翻訳を交えながら、時に写本として、時に印刷によって現在まで有る種「存続」し続けていた。この状況がさらに進行し、今後あらゆる時間あらゆる時刻において、例え人類が滅ぼうと地球が消滅しようと宇宙が消滅しようと、この『ニコマコス倫理学』という本の生成は何らかの仕方で止まらず継続されるという事態を考えてみよう。このような事態が成立した場合に、ある一冊の『ニコマコス倫理学』を取り上げて「この『ニコマコス倫理学』は永続的なものか?」と問われたら、どう応じるだろうか。

この問いを、いくつかの場合に分けながら考えてみる。一つに、そのような事態にあってなお、私達は「その『ニコマコス倫理学』は永続的なものではない」と応じうる。ここで「永続的なもの」としての在り様を否定されているのは、物資的存在としての、個別の一冊の具体的な書籍としての「『ニコマコス倫理学』という本」である。そうした個別の本は時間経過と共に色あせ、崩れ、「本」としての物理的形態を維持できなくなり、最終的に本という存在としては「消失」する。故に、私達は一般に、物質的存在に対してはその永続性を認めない。先のような事態が成立した場においてもなお、私達は個別で物質的な「その『ニコマコス倫理学』」について、それは「永続的なもの」ではないと認識し得るし、現に認識するだろう。

一方で、私達は全く同じ事態にあって「『ニコマコス倫理学永続的なものである」とも応じうる。ここで「永続的なもの」として認識されているのは、「この」と指示されている物質的存在としての『ニコマコス倫理学』という本ではない。そうした個々別々の物質的存在としての『ニコマコス倫理学』が帰納的に想起される、観念的存在としての『ニコマコス倫理学』である。そして、物質的存在は一般に「永続的なもの」としてはその存在を認められないのであるから、もしも「永続的なもの」として認識され得るものがあるとしたら、それはこの『ニコマコス倫理学』のような、観念的存在としてのものである。

ところで、観念的存在としての『ニコマコス倫理学』は「永続的なもの」として認識され得るが、観念的存在ならば「永続的なもの」として認識されるわけではない。観念的存在として想起された『ニコマコス倫理学』が、しかもどの時間においても「同じ」とものとして現れ存在するものとして確信されてようやく、私達は『ニコマコス倫理学』を「永続的なもの」として認識できる。何故か。先の通り、今や『ニコマコス倫理学』は人類はおろか宇宙の存在とすらも無関係に生成され続ける。その間に一度人類が消失し、いくらかの時間を経て、再び人類(あるいは、任意の知的生命体でも良い)が出現したとしよう。そうして現れたそれらが、引き続き生成され続けている『ニコマコス倫理学』を手に取り、その内容をなんらかの仕方で理解できたとしよう。この時、現在の私達が想起する観念的存在としての『ニコマコス倫理学』と、彼らが想起する観念的存在としての『ニコマコス倫理学』を、果たして私達は「同じ」と認識するだろうか?

この問いに対して、「同じ」ということが確信されたなら、しかも、現人類が滅びてから新人類が『ニコマコス倫理学』を手に取るまでにやはり現人類が滅びるより前と「同じ」存在で在り続けたと確信されたなら、そのような確信に基づいて、私達は『ニコマコス倫理学』を「永続的なもの」であるとして認識し得る。「永続的なもの」というのは、永遠に存在し続けるようなものであり、そこには「し続ける」こと、すなわち連続性が要求される。連続性無くしてそれはただの「遍在」にしかならず、その連続性は「同じ」で在り続けることによって想起される。あらゆる任意の時間において「同じ」で在り続けることへの確信があってこそ、Xについて「永続的なもの」という認識が成立可能となる。このことから、"私達の『ニコマコス倫理学』と彼らのそれは「同じ」か?"という問いについて「同じ」ではないと応じるなら(もちろん、そのように応じることも可能である)、その認識においてはもはや任意の時間において「同じ」であるという確信は存在していないので、その場合には『ニコマコス倫理学』は「永続的なもの」として認識されていないし、認識し得ない2

「永続的なもの」であるという認識の諸条件についてのまとめ

以上が、あるXについてXが「永続的なもの」であるという認識が成立するための諸条件とその根拠である。

  • Xという某かについて、なんらかの形で想起されていること
    • Xがなんらかの形で想起されていなければ、"Xは「永続的なもの」であるか"という問うことすらできず、問題の認識を抱くことすらできない
  • Xという某かについて、それが実在的なものとしてにせよ観念的なものとしてにせよ、なんらかの形で現に存在するものとして認識されていること
    • Xが「永続的なもの」であるとするなら、そこには「永続的なもの」として現に存在するXが、実在的にせよ観念的にせよ、少なくともその意識に於いて認識されていなくてはならない
  • Xという存在について、いついかなる時刻にあっても現に存在するという予感ないし確信、すなわち、「Xはあらゆる時刻において遍在する」という確信が抱かれること
    • ある時刻において現に存在しないことが有り得るような、またそのような事態が想起されるようなXについて、私達はそれを「永続的なもの」とは認識しない
  • Xという存在について、いついかなる時間にあっても「同じ」Xで在り続けるという確信、すなわち、「Xはあらゆる時間において連続する」という確信が抱かれること
    • 時間の前後で「同じ」でなくなってしまうような、またそのような事態が想起されるようなXについて、私達はそれを「永続的なもの」とは認識しない

「永続的なもの」の恣意性について

Xが「Xは永続的なものである」として認識されるための条件が上記の通りであるとするなら、「永続的なもの」という認識はア・プリオリな認識としては成立しないと考えられるだろう。

Xが「永続的なもの」として認識されるためには、少なくとも1つの想起と3つの確信が必要である。1つの想起については、単に「Xは永続的なものであるか?」と問えば、少なくともそのような事柄をXについて考えるという形でXは想起できるから、その条件は特に問題なく達成できるだろう。しかし残りの3つについては、その認識主体が「永続的なもの」であるものとしてXを確信できるかどうかに全く依存している。そしてその依存の仕方は、専ら経験に依って立つと思われる。

例えば神の永続性について、敬虔なキリスト教徒であるならば、現に存在し、かつあらゆる時刻に遍在し、かつあらゆる時間において同一で在り続けるような存在としての神を確信できるだろう。そのキリスト教徒にとって、少なくともその者の認識に於いて、神はまさに「永続的なもの」として認識される。一方で、そのような神の存在を信じられない人にとって、たとえば神の連続性は認めるが遍在は認めない者、神の遍在は認めても連続性は認めない者、果は神の存在そのものを認めないものにとっては、少なくともその者の認識においては、神は全く「永続的なもの」としては認識されないし、され得ない。その者の認識においては、神は時に存在しないかもしれず、時に別の存在とすり替わっているかもしれず、あるいはそもそも現に存在しない妄想ないし空想でしかないかもしれず、そのようなものを「永続的なもの」とは認めないだろう。

このことから、「永続的なもの」というのは、そのような認識が成立する条件において観測者の恣意性が必然的に含まれる。よって、「永続的なもの」というのは原理的に恣意的なものでしかありえないのではないか。


  1. 一通り書き上げてから、そもそもの命題を盛大に読み違えていた可能性に気づいたが、とりあえず契機と考えたことはわける形で済ませた

  2. さらに観念的存在としての「同じ」さがどのように認識されるのか、「同じ」という認識の成立可能性は何によってもたらされるのかという問題も存在する。この点もまた一つ重要な問題である(あるいはこの点こそ最も重要な問題である可能性もある)ことは認めつつも、これ以上の考察の肥大化と、筆者の能力限界へ到達することによって考察全体が停止してしまう点を回避する意味で、今回は一旦、そこには踏み込まずにおく。