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読書メモ - 『異本論』外山滋比古

対象書籍

各章について

「読者の視点」について

ある古典の源流となった著者自身のテキスト、究極は肉筆の原稿を「源泉」に、そこから発生した様々な解釈を「支流」に、その様々な「支流」が合流してまさに古典として成立した様を「大河」とするメタファ。 著者自身の考え・意図のみをを追求し、そこから発生した多様な解釈に価値を認めない態度を「原稿至上主義」として、批判的に評価。

初見にて、「原稿を源泉として例えながら、解釈を"古典"へ流れ込む支流として例えるのでは、位置的にも時系列的にも関係が逆転しているのではないか。これでは源泉へ支流が流れ込んでしまっている」と読み、メタファとして成立していないと考えた。

ただしこれは、"原稿"と"古典"が区別されていることを理解していなかったことによる自らの誤読である。上記のように"原稿"と"古典"を区別すれば、すなわち"古典"とは特定のいち形態をもった物理的テキストを指すのではなく、歴史の審判を経て成立した一つの現象であるとすれば上記のメタファとまさに整合するし、実際、本文はそのように書いていたものとして解するべきものであった。事実、「文学作品は物体ではない、現象である」という記述が含まれている。


ところで、このような誤読を経て疑問を抱いたのは、こうした的を外した批判、的を外した「解釈」もまた、「自由な読書」の名において肯定されるのだろうか、ということ。このような、書いていないことを読み書いていることを読まないで成される解釈は、許容されるべきなのだろうか。また、本書では以降で実際にそのように主張するのだろうか。

この時点で、自身の考えを整理する(本書の解釈ではなく、あくまで自身の考えである。本書が以降どのような主張を展開するのか、その内容について自分がどのような評価を行うのかは、まだわかっていない)。解釈と誤謬は区別されて語られる必要があるのではないか。

解釈とはすなわち「対象について、対象それ自体がどうあるかとは別に、私はしかじかのような意味づけを与える」という態度。この意味において、読者は書いていないことはおろか、否定していることすらも解釈のうちに取り込む可能性すら生じてくる。「Aが実は〜という役割をも担うことが可能だとしたなら、Aは一見して関係ないBをも解明したものとして評価できるのではないか」「〜ではAはCではないと語られているが、...のようにAを捉え直すことができるのなら、AもまたCであると評価する余地は残っているのではないか」など。重要なのは、「Aは〜という役割を担っていると著者は語っている」「Aは実はCだと著者は語っている」と嘯くのではなく、あくまでテキスト中で語られるAに対して、読者が何かしらの意味や視点を 加えている という点ではないか。

他方、誤謬とはすなわち「Aは〜という役割を担っていると著者は語っている」「Aは実はCだと著者は語っている」と語りつつ、実際にはそのような記述が存在しなかったり、あるいはその正反対のことが書かれているケース。解釈との相違点は、自らの意味や視点を加えている/加えようとしているのではなく、対象それ自体がまさにそのようなものであるとして語っている点。すなわち、テキストが指す意味内容そのものはXであると主張するが、実際には、テキストにはXではないことが示されていたり、あるいはXであると主張するだけの根拠がテキスト中に存在していないケース。

解釈と誤謬を分け隔てるのは、対象を踏まえて自ら新たに創造したものとして表明するか、対象それ自体が持つ意味内容であるとして表明するか。前者は読者に開かれてしかるべきだが、誤謬は取り除かれるべきである。先の誤読についていえば、これは本文が書いていない意味内容を以て本文の意味内容であると捉え、そしてそれによって批判したということであるから、誤謬であり誤謬に基づく批判として、排除されてしかるべきである。

解釈は読者に開かれてしかるべきというのは、本文でも語られている通り、それによってこそ源泉の可能性が開かれ大河(古典)として発展しうるからである。また別の視点として、開かれた解釈があってこそ、源泉からは思いも寄らないはるか遠方へと到達する可能性も存在するからだ。解釈を閉じてしまうことは、そうした発展の芽をことごとく摘み取ることとなりかねない。

誤謬は取り除かれるべきというのは、それは源泉から支流を生み出す行為ではなく、源泉でも支流でもないものを源泉や支流であると騙る行為だからだ。支流は源泉を発展させ大河を作るかもしれないが、誤謬は源泉や支流を濁らせる。源泉や支流に、源泉でも支流でもないものを混ぜ込む行為である。誤謬によって源泉や支流が濁れば、必然それはそれが流れ込む先を濁らせ、最後は大河すらも濁らせていく。

このように考えるならば、すなわち解釈であるからといって無制限にあらゆる態度が許容されるのではなく、あくまで誤謬は誤謬として取り除かれることを含むのであれば、自身はどちらかというと原典を重視する立場にいるが、しかし「自由な読書」を肯定し推奨する態度にはなんら異論は無いし、解釈によって源泉が大河へと発展するという論にも同意するものである。

しかし、誤謬を取り除くためには源泉が何であるかを知ることが必要である。源泉が何かを知らなければ、そこや支流に入り込んだなにかが誤謬なのか源泉なのかを判別できない。だとするならば、「読者が自己を否定して、ただ、作品に忠実にということのみを考えて読」むという行為も、畢竟必要ということになるのではないか。もっともこの疑問は、本書が批判する態度が「原稿至上主義」、すなわち源泉のみに価値を認めそれ以外はただの不純物として一顧だにしな態度に限定されているのであって、単純にあるいは素朴に「源泉重要視する」「著者の意図や目的重要視する」という態度は特段排除しないのであれば、それほど問題にはならないのだろう。