メモ - 言語化能力とは何でありうるか
「言語化」とは、何を対象とした行為なのか
- 「言語化」の対象は、思考・意識・感情といったもの、総じて人間の認識であるか
- 思考や感情を精緻にテキスト化すること?
- ある事柄を様々な形式で表現すること?
- ≒ 表現能力?
- ex. 文学、詩
- 何らかのテキストを出力すること全般?
- 単なるテキスト出力とChatGPTによる「人間のような出力」を隔てるものはあるのか、あるとしたら何か、そもそも隔てられているのか
echo "Hello, World"
は言語化能力か?
「記述」と「表現」について
「精緻にテキスト化すること」と「様々な形式で表現すること」は排他か?
- 「表現能力」があるとみなされた結果、連動して「記述能力」があるとみなされる側面
- 「記述能力」があるとみなされた結果、連動して「表現能力」があるとみなされる側面
- 「表現能力」と「記述能力」は相互依存か
- そもそもこれら能力の有無は、恣意的な判断以外になりうるか
- 人間の主観に由来しない「精緻さ」はありうるか
「言語化」の前提条件は何か
- 「言語化」の対象が人間の認識だとしたら、人間以外に「言語化」は可能でありうるか
- ex. ChatGPTのような、おおよそ精神と呼ばれるもの(思考・意識・感情)が内在しない存在による、しかしさも人間のようなテキスト出力
- 哲学的ゾンビ
- 「ChatGPTは精神も認識も持ち得ないが、人間は精神を持ち認識を持つ」は、どうやって判断され得るか?
- 「中国人の部屋」の思考実験
- やり取りしている人間が哲学的ゾンビであった場合、それは「ChatGPTと同じ」か、異なるか
- 「ChatGPTは精神も認識も持ち得ないが、人間は精神を持ち認識を持つ」は、どうやって判断され得るか?
「言語化能力」は測定可能か
- 論理的構造に限って言えば、その妥当性(無矛盾である、無誤謬である)は形式にのみ依存するので、一般に計測可能
- 「論理的に妥当である ≠ 対象を精緻に記述しきっている」に注意
「言語化」の前提として、主体が精神を持つことを前提とするかどうか
前提とする場合
- その「記述」がどの程度精緻であるかを、どうやって判断するのか
- 哲学的ゾンビについてはどう考慮するか
- 「記述」した本人であっても、その精緻さを判断できるのか
- 原理的に、有る種の「統計的」あるいは「傾向的」な評価にしかならないのではないか
前提としない場合
- 「記述」ないし「言語化」の対象は何か
- ex. ChatGPT の場合、「質問」という入力に対して「回答」という出力はある
- なんらかのXを「記述」「言語化」した結果として「回答」が得られる
- ただし、「質問」はこのXそのものではない。
- 人間の場合であれば、やはり「質問」という入力に対して「〜という内容を回答するべきだろう」という思案し、その思案を踏まえて「回答」を記述するという手順になる
- 対象Xに最もちかいのは、ここで言う「思案」にあたるか
- X ≠ 思案だとしても、Xは「質問」でも「回答」でもなく、「質問」という入力から「回答」という出力が生まれるまでの中間に存在すると思われる
- ChatGPTにそうした中間は存在するのか
- 前提としない場合、「言語化能力」として評価し得るのは論理的妥当性のみ、ということになるか
「言語化能力」と「つまらなさ」「おもしろさ」について
- 「つまらなさ」「おもしろさ」は「言語化能力」の測定に加味するべきか
論理的構造 | おもしろさ | 例 |
---|---|---|
妥当 | おもしろい | 数学者にとっての高等数学・形式論理など |
妥当 | つまらない | 数学嫌いにとっての高等数学・形式論理など |
破綻 | おもしろい | 進次郎構文、ボボボーボ・ボーボボ |
破綻 | つまらない | 見知らぬ酔っぱらいの与太話 |
- 論理的な妥当性とは無関係に、「おもしろい」「つまらない」という評価は可能
- 論理的妥当性はテキストの形式にのみ依存して決定する
- 「おもしろい」「つまらない」はテキストと読者の関係性において決定する
- 同じテキストであっても、受け手によって「おもしろい」「つまらない」の評価が一定しない原因
- 同じテキスト・同じ受け手であっても、その時の状況・環境によって「おもしろい」「つまらない」の評価が一定しない原因
- 評価のパラメータが全く異なっているので、互いに独立
- 「おもしろさ」「つまらなさ」は、どちらかというと「演出能力」や「表現能力」が関わるものとして、分離して考えたほうが良いのではないか
- 受け手が勝手におもしろがるタイプの「おもしろさ」