雑記帳または /dev/null

ソフトウェア開発、哲学、プログラミング、その他雑多なものもののメモ

View, Role, Entity, 現象学的還元

発端

現象学的還元み」について、一見して「なるほどそれらしいな」という気はしたが、何がどう「それらしい」のかとっさに言葉として出てこず、またその「それらしさ」が実際妥当と感じた根拠もよくよく考えると不明瞭だったので、実際に還元してみるテスト。

結論

View や Role を「観察者にとって確実なもの」として、そこから導出される(だろう)Entityを仮説とする考え方は、ViewやRoleといった現象から出発して、構成的内在として成立するようなEntityと、Entity によってさらに構成される構成的内在としてのViewやRoleを導出したものとして捉えられるのではないか。そのように捉えるなら、確かにこれは「現象学的」と呼べそうだ。

還元

例えば「優良顧客」というものがあり、それを取り扱うシステムを考えるというシチュエーションを考える。「優良顧客」というもの、それ自体の実在や確実性を当面カッコに入れた時、すなわち「優良顧客」というものが妄想でなく現に存在するかどうかや「優良顧客」という捉え方が確実普遍かそうでないかなど、「優良顧客」それ自体に対する一切の判断を保留した場合、少なくとも確かに残るものとして、"私達が「これは優良顧客である」と認識できると考えるような何かしらを、私達は認識している"ということが言えるだろう。

その認識の始まりとなる経験1が、「優良顧客」と呼ばれる人を現に目の当たりにした(感覚した)ことだったにせよ、そのような状況を想像するという空想だったにせよ、脳髄2へ送られた「そのように考えよ」という電気刺激3だったにせよ、"私達が「これは優良顧客である」と認識できると考えるような何かしらを、私達は認識している"という事態に違いは無い。

私達が認識している何かしらの存在が確実であるかどうか(妄想や電気刺激の結果ではないか)や、その認識対象について「これは優良顧客」であると認識することが確実普遍なものであるかは、依然として不明である。しかし、"私達が「これは優良顧客である」と認識できると考えるような何かしらを、私達は認識している"ことを確実なものとして認めるなら、少なくともそのような認識があること、そこには"「これは優良顧客である」と認識できる"という認識が含まれていることもまた、確実なものと言って良いだろう。

確実なこと、しかじかのような認識。そこには、"「これは優良顧客である」と認識できる"という認識が含まれている。このことから何が言えるだろうか。

  1. 個別の何かしらについて、私達は「これは優良顧客である」と認識できること
  2. そこには「これは優良顧客である」という認識が含まれていること
  3. その認識には、「優良顧客」という概念が含まれていること

何かしらの実在、「これは優良顧客である」という認識の確実性と普遍性、そこに含まれる「優良顧客」という概念の確実性と実在性、いずれも未だ不明であり何一つ確かではない。しかし、"私達が「これは優良顧客である」と認識できると考えるような何かしらを、私達は認識している"という確かな事柄から、少なくとも、このような認識と概念が私達の意識において想起され認識されていることは、疑い得ない確実なことと言って良いだろう。

こうして「優良顧客」という概念が私達の意識に想起され認識されているということを確かめた上で、引き続き何が言えるだろうか。

  1. 「優良顧客」という概念は、「優良な顧客」として、すなわち「優良」という認識を伴った「顧客」として、構成されている
  2. 「優良顧客」という概念は、そこに「顧客」という概念を前提としており、「顧客」の中でもとりわけ「優良」なものとして認識されたものが、そう呼ばれる

このように考えるなら、「優良顧客」という概念はそれ単体で簡潔したものではなく、その背後に「顧客」という概念と、さらに個別の「顧客」に対する「優良である」という評価(という認識)が付与されていることがわかる。

ここで私達が「顧客」と認識するものは、ア・プリオリに「顧客」なのだろうか。すなわち、それは認識以前に必然的に「顧客」であり「顧客」以外ではありえないような存在なのだろうか。そうではない。私達が「顧客」と呼ぶものは、時として「組織」であり「個人」であり、時として「勤め先」であり「家族」であり、時として「競合」であり「上司」である。「顧客」という認識はこれらのすべてと両立可能であり、同時に、これらは全て「顧客」という在り方無しに成立可能である。 したがって、「顧客」はア・プリオリに「顧客」ではない。よって、「顧客」とは一つの認識であり、「顧客」として私達が認識する故に「顧客」なのである。それは、「顧客」とは私達が何かしらの対象に対して与えた Role であると呼び替えても良いかもしれない。

「優良顧客」を構成するもう一つの概念、「優良」についても同様のことが言える。「優良顧客」は、ア・プリオリに「優良」なのではない。この「優良」も、同様に私達がある「顧客」に対して与えた認識でしかない。私という個人ないし私達という組織に対して「優良」な「顧客」は、他の個人ないし組織からしてみれば「厄介」な存在かもしれない。私ないし私達から見て「厄介な存在」は、他の個人ないし組織にとってこの上なく「優良」な存在かもしれない。「優良」であるかどうかということもまた、特定の認識によって外部から与えられる特徴ないし「属性」に過ぎない。

かくして、私達は「優良顧客」という認識についての確かな事柄を出発点として、それを構成するいくつかの要素を獲得したこととなる。

  • 何かしらの存在。それは個人や組織など、いくつかの在り方が可能である。
  • その「何かしら」に対して、私達が自らの認識を通じて与える「顧客」という役割
  • 個別の「顧客」に対して、私達が自らの認識判断を通じて与える「優良」という属性

これがまさに Entity であり、そこへ私達があてはめる Role であり、そこに私達が見出す Attribute であり、また「優良顧客」は Entity と Role / Attribute を現に結合して構成した View である、という風に捉えられるだろうか。

まとめ

ある存在が「優良顧客」であるというのは、私達の認識においては「事実(Fact)」として認識され、まさにその認識に基づいて私達は振る舞うこととなる。ただし、それが「事実」であるという認識は超越的なものである。「優良顧客」という在り方は、認識している対象の存在そのものにおいてア・プリオリな在り方ではない。ある存在が「優良顧客」であるということを私達はしばしば「事実」として解するが、それは私達が内在において抱いている諸認識を超越して抱かれたものである。

「優良顧客」について、そうした超越を廃して、実際にその認識を実現するために私達が内在として構成するものを吟味した時、すなわち還元をおこなった時、以下の構成的内在が考えられる。

  • 何かしらの存在。それは個人や組織など、いくつかの在り方が可能である。Entity
  • その「何かしら」に対して、私達が自らの認識を通じて与える「顧客」という役割。Role
  • 個別の「顧客」に対して、私達が自らの認識判断を通じて与える「優良」という属性。Attribute

そして、「優良顧客」とはこのEntity/Role/Attributeを結合した結果、「(私達にとっての)事実」として得られる一つの視点、View であると考えられるだろうか。

このようにして Entity/Role/View を捉え吟味した時、その過程はまさに現象学的還元であるとするのなら、まさに冒頭の議論は「現象学的」と呼んで差し支えないと言って良さそうだ。

エンティティの方こそ仮設された仮説。これを僕はTruthと称する。Truthなんてものは常に仮説なのだ。 一般にViewとかRoleとかに見られてる方こそ揺るぎない一つのFact。こっちの方が実態として実体的。


  1. 「我々の認識がすべて経験をもって始まるということについては、いささかの疑いも存在しない。」 カント『純粋理性批判 上』篠田英雄訳, 岩波文庫, p.57

  2. 『水槽の脳』 https://ja.wikipedia.org/wiki/水槽の脳, 2021/11/20 02:28:00頃 閲覧

  3. Putnam, Hilary 『Reason, Truth And Historyhttps://archive.org/details/HilaryPutnam/mode/2up 02:28:00頃 閲覧