雑記帳または /dev/null

ソフトウェア開発、哲学、プログラミング、その他雑多なものもののメモ

自動化の功罪?としての矮小化と、その対処について

背景

「◯◯ができない/上手くこなせない」という時、対処方針としては「◯◯を可能とする能力・技能を身につける」「◯◯をする必要を無くす」というのがとりあえず想定できる。しかし、この類の話題は後者に偏りがちな、それも過剰にそちらへ傾くことがあるようにしばしば感じる。とりわけ、ソフトウェアの文脈において顕著ではなかろうか、という感覚がある。すなわち、「どうやったら〜できるだろうか」を考えるのではなく、「〜をしたくないので、...の方が良い」「簡単に〜をやってくれる何かが欲しい」といった方向に、時として過剰に傾くことがあるのではないか。

何か計測や集計したわけではないので、体感・肌感という名の想像あるいは妄想ではある。それをわきまえた上で、実際にこうした傾向があるとしたら、あるいはそのような傾向が生じるとしたら、何がそれをもたらす(もたらし得る)のだろうか。また、そうした傾向は具体的にどのような形で表出し得るのだろうか。そういったことを考えてみたい。

自動化の功罪?

ソフトウェアやハードウェアの発展によって世の中の様々な事柄が自動化されてきたが、そうした様々の自動化の弊害が、こうした事態が起きる理由の一つとして考えられるだろうか。「する必要を無くす」が、すなわち「不要化」がいくつも達成されてきたのを見てきた、あるいは普段からそれを体験していて、しかもそれは快適だから、多くの物事において第一選択にしがちになっているのでは、という推測。 電話も当初は交換手によって手動で繋げられていたのが、現代ではシステム化されて番号から自動で接続される。ニュースサイトの更新や新商品の発売も、設定さえ行えば自動で取得され通知される。とりわけソフトウェアの文脈では自動テスト・静的解析・CI/CDなど、様々な自動化がなされ、かつその恩恵が実際にもたらされている。

ただ一方で、こうした自動化等による「不要化」に対する信頼が、ソフトウェアの文脈においてすらもしばしば過剰に働いているのではないかと感じることがしばしばある(むしろ、ソフトウェア文脈の方が顕著かもしれない1)。「不要化」自体が一般に問題だという話ではない。それの恩恵を普段から受ける(あるいは受けることを切望し続ける)ことによって、「不要化」の有効/有意義な範囲を過剰に広く取るクセが付くことは無いか、それによって、「不要化」する必要の無い/すべきでないものにまで「不要化」の有効性を期待・信奉してしまっている状態に陥りがちではないか、という疑念である。 SFなどでさんざん描かれてきた「AIがあらゆる人間の意思決定を代行する」とか「AIが人間を支配する」といった世界観は、「不要化」の有効範囲を広げすぎた極致の一つである、とも言えそうだ。その世界においては、人間自身の思考や意思決定すらも「不要化」可能かつそれが有意義な範囲であるとして見なされている。しかしそうした世界は多くの作品ではディストピアとして、人間を人間足らしめるものを捨て去ってしまった喜ばざるべき世界として描かれている2

「不要化」への信頼と「わかりやすさ」への期待がもたらす、矮小化とその是認ないし許容

専門的あるいは複雑な概念・議論について、それを何とか理解しようともがくのでなく、かといって「こんなものは私に不要だ」「私にはとてもこれは理解できない」と理解を放棄して諦めるのでもなく、「わかりやすい」「パッと分かる」何かを求め続ける態度の背景として、先述のような話を考えられないか。すなわち、(自分にとって)難解でなかなか理解できないという事態に遭遇した時、その理解を半ば「自動化」してくれるような、努力して理解することを「不要化」してくれるような、そうした何かの実在あるいは実在可能性を素朴に信じてしまう、あるいは常に期待し続けるような思考・態度が、自動化とその実現が繰り返されることでより一層強化されてはいないか。

このような思考・態度において、難解な対象について「様々な文献を調査してその情報を整理・検討する」だとか、「その意味内容を分析して細かな妥当性や整合性を吟味・検討する」といった行為は単純に「コスト」であり、取り除けるなら取り除くべきものとして評価される。すなわち、「不要化」の第一候補である。それらが本当に取り除いてしかるべきものかどうかは吟味されず、それら「コスト」が獲得を妨げている(と見なされている)「リターン」が上回るなら、進んで「不要化」されて然るべきものと捉えられる。

「わかりやすい説明」「パッと見てわかる図解」を希求する態度は、まさにこうした態度の典型例と言えるのではないだろうか。テキストを読み込んでその内容を整理するといった「コスト」を予め行い、その結果だけをもたらしてくれるという点で、「わかりやすい説明」「パッと見てわかる図解」などは、受け取る側にとってそれは有る種の「自動化」である。加えて、「コストとリターンのバランスさえ取れるのであれば、その対象が何であれ自動化はどんどん為されて然るべきである」という態度と組み合わさるとき、素朴には以下のような結論へ自ずから到達するのではないだろうか。

難解な概念や議論を私が理解する必要はない。そんなコストは、「わかりやすい説明」「パッと見てわかる図解」を作るシステムが払えば良いのである。
私はその結果から得られる内容さえ把握していれば良い。そんなコストはどんどん「自動化」されて取り除かれるべきだ。

難解な概念や議論を理解できていないことが問題だとしたら、それは「わかりやすい説明」「パッと見てわかる図解」が用意されていないからであって、私(達)の問題ではない。
対処すべきはいかにして「わかりやすい説明」「パッと見てわかる図解」を実現するかという点であって、私(達)がどうこうするものではないし、その必要もない。

この「素朴な結論」をどう評価するか。少なくとも私は、これを自動化がもたらした(かもしれない)現代の病理であり、解消されるべきものと評価する。「水は低きに流れる」と言うことわざが示すように、自動化によって様々な事柄が「不要化」され「快適」になった現代において、このような結論はしばしば当然のように映るだろうし、それは人間の有る種「本性」的な結果としても捉えられるだろう。しかし、ヒュームが指摘する3ように、仮に人間の「本性」が事実このような性質を持つもの「である」としても、そのような性質を持つこと/持ち続けることについて「そうであるべき」あるいは「そうであっても良い」という評価を直ちに導くことはできない。実態がどうであるにせよ、それとは別にそれを是とするか否とするかの評価は可能だし必要だ。

私は、このような「素朴な結論」を否とする。「わかりやすい説明」「パッと見でわかる図」は、そうするために畢竟多くの情報を捨て去ることになる。想定読者が持ち得てないだろう前提や制約、あるいはその人々が興味関心を示さないだろう話題や議論は、捨て去られるか省略される4。それによって某かを「理解した」という感覚を容易に得ることは快感で快適ではあるが、一方で、難解で複雑な対象を強く矮小化しながら自身の内で理解することになる。 もとより人間は自身が理解可能な範囲でしか理解できない(=矮小化は不可避である)という面もあるだろう。しかし、「わかりやすい説明」「パッと見でわかる図」は、そうした矮小化の存在を覆い隠す。複雑で難解な部分は省略され取り除かれているということは、つまり、受容者がその認識において矮小化を行う以前にその媒体においてすでに著しい矮小化が行われているのである。それは「わかりやすい」が故に、スムーズに「XとはYである」という図式を受容者に認識させるがゆえに、矮小化の存在や範囲そのものを認知困難にさせる。既に「XとはYである」という明快で安定した図式を得たにも関わらずあえてその図式を疑い破壊することは、安定を捨て不安定へ向かうことを意味するが、この選択は一般に人間にとって困難だ。

このように、「わかりやすい」媒体においては、矮小化が暗黙的に二重化していると考えられる。第一に「わかりやすくする」という段において作者による矮小化が生じ、第二にそれを受容する段階で受け手ごとに矮小化が生じる。この二重化が、矮小化の自覚を困難にする。安定を破壊することそれ自体が困難であるにも関わらず、ここにおいてはその破壊自体も二回にわけて、それもその矮小化を為す主体が異なっていることを把握しながら行う必要が生じているからだ。 先述の「素朴な結論」は、こうした矮小化とその軽減を困難にする図式を、素朴にかつ無邪気に是認し、ともすると推進し得る。制御困難な矮小化を、それと気づかず、あるいは確信犯的に5押し広げ、様々な概念を「わかりやすい」形に矮小化して広げてしまう。ソフトウェア文脈に関して言えば、「オブジェクト指向〇〇」はその代表的な被害者なのではないだろうか。そしてその被害者は、今なお増え続けつつあるように見える6。そうしてかつて知の巨人達が多くの時間と労力をかけて積み上げたものは矮小化され、ただのツールセットやレシピ集へと変化し、背景やそもそもの課題設定を無視して「取るに足らないもの」「今となっては不要なもの」と簡単にみなされ、捨て去られていく。このような事態を是認あるいは容認できるだけの根拠や価値基準を私は持ち合わせていないし、また、これは積極的に批判されなくてはならないという価値基準を私は採用ないし信仰する。

矮小化を防ぐ、あるいは軽減する

コンピュータを介するにせよそうでないにせよ、何かしらの「自動化」ないし「不要化」による世界をの単純化は、時として矮小化を生じる。そのような矮小化を防ぐ、あるいは矮小化が生じるにしてもその程度を軽減しなければならないという立場を私は取る。

「◯◯ができない/上手くこなせない」という事態に遭遇した時、そうした矮小化の防止あるいは軽減を実践するために必要なのは、「◯◯をする必要を無くす」のではなく「◯◯を可能とする能力・技能を身につける」という対処方針となるだろう。つまり訓練と教育であり、紀元前から現代までずっと語られ続けている難問に立ち向かわなければならないという、ごく平凡にして何番煎じかわからない結論であるが、少なくとも私にはそれぐらいしか浮かばない7

注意すべき点として、能力・技能を身につけるための訓練・教育といっても、それが形式主義教条主義に陥っては本末転倒である。いわゆる世のハウツー本などがその典型で、「〜をすれば良い」「必ず〜と〜をすること」といった形式化やルール化は、「わかりやすく」はあるが、具体的にすぎるが故に、その応用範囲は著しく狭まる。そこでもやはり矮小化が始まっている。そもそもとして、我々人間の認知や認識、思考の仕組みや構造について全様が解明できたわけでもないのに、一定の形式やルールにはめ込もうというアプローチに無理がある。

「〜を実現する仕方」を直接身につけようとすると、ハウツーに陥ってしまう。一般に通用する「〜を実現する仕方」というのは、恐らく現代人類には解明できていないし、今も昔も解明できたことなどないだろう。学ぶべきは「「〜を実現する仕方」を研究する方法」ではないか。手順ではなく思考の様式を、「仕方」を学ぶのではなく「方法」を学ぶのである8。「方法」の学習がハウツーと一線を画すのは、「方法」の学習によって、「方法」自体を研究することも可能になりうる点にある。「Xを研究する方法」を学んだなら、その「方法」は、「Xを研究する方法」を研究する「方法」を考える、という形で応用できる可能性がある。ハウツーが個別具体的であるが故に個別具体へ対処する「仕方」に留まらざるを得ない一方で、「方法」は「「方法」の方法」という形で新たなメタを生み出しうる。

こうした意味での「方法」の探求こそが、「◯◯を可能とする能力・技能」の習得へとつながってゆく。「〇〇を可能とする能力・技能」を身につけるための訓練・教育という「仕方」を実現しようとするなら、様々な課題がある。その課題を発見し検討し吟味することを可能とするのが「方法」である。「方法」を駆使して課題を発見・検討・吟味することで、「〇〇を可能とする能力・技能」を習得するための「仕方」に近づき得る9。その結果として「〇〇を可能とする能力・技能」を習得できる可能性が出てくる。

最も、「方法」はそれ自体多種多様であり変数も多く複雑で、決して「わかりやすい」ものではないし、そもそも安定して運用することができるかどうかから定かではない。しかし、矮小化およびその連鎖を脱却しようと欲求するならこの難題に立向うことはどこかしらで必然となってしまう。それは多くの時間において快適でもないし快感ももたらさない「棘」であるが、同時に、矮小化の檻を打ち破る「槍」となるのかもしれない10

まとめ

  • 困難に遭遇した時、「◯◯を可能とする能力・技能を身につける」「◯◯をする必要を無くす」という二つのアプローチが考えられる。しばしば、後者のアプローチに偏重したり、後者のアプローチが可能ならば常に後者が望ましいかのように扱われる場面があるように思う
  • 「上記のような場面が実際にある」という仮定を置いたとして、それはどのように生じうるのか。現代では自動化によって様々な「◯◯を不要にする」が達成されているが、それがこうした場面の背景になりうるのではないか。
  • 自動化による恩恵をあちこちで頻繁に受け続ける、あるいは最初からそれが当たり前になっていることで、「自動化が実現される = 良い」という価値観が醸成されていないか。それは、「わかりやすさ」を要求して難解で複雑な対象の理解を試みることを拒絶する態度の強化にも、一役を担っているのではないか。
  • 「自動化が実現される = 良い」という素朴な価値観によって、難解で複雑な対象を矮小化することへの抵抗が希薄化あるいは消滅してしまっていないか。「どうでもよいこと」「しかたないこと」と軽視されていないか。そのような事態を、私は否定的に評価する。
  • 矮小化を是とせず、許容も諦観も拒否するのなら、必要なのは能力・技能を習得するための訓練・教育しかないというありきたりな結論へ帰着する。そこでは、「〜を実現する仕方」よりもその「仕方」を考える思考様式すなわち「方法」の吟味と研究が重要である。

  1. ソフトウェア文脈においても、自動化は「銀の弾丸」として、すなわちあらゆる問題を解決する万能の処方薬として扱われてはいない。むしろ、自動化すべき範囲とそうでない範囲は区別せよ、という議論自体は多く有る。しかし、そうした議論で「自動化すべきでない」とされる理由は、多くの場合「コストとリターンが釣り合わないから」という評価であることが多い。これは同時に「リターンがコストを上回るなら、自動化せよ」を意味する。すなわち、自動化をするべき(するのが良い)かどうかはひとえにコストとの兼ね合いという問題でしかなく、自動化それ自体の是非は実は論じられていないし、むしろ自動化は実現できるなら基本的に「良い」ものと見なされているように思う。

  2. 手塚治虫火の鳥 未来編』では、まさしくコミュニティの意思決定が人工知能に委ねられ人間はそれに従うのみとなった世界が描かれている。この作品では人工知能の暴走によってコミュニティ間の核戦争が勃発し、人類は滅亡した。

  3. デイヴィッド・ヒューム『人性論』 3.1.1 どの道徳体系ででも私はいつも気がついていたのだが、その著者は、しばらくは通常の仕方で論究を進め、それから神の存在を立証し、人間に関する事がらについて所見を述べる。ところが、このときに突然、である、ではないという普通の連辞で命題を結ぶのではなく、出会うどの命題も、べきである、べきでないで結ばれていないものはないことに気づいて私は驚くのである。この変化は目につきにくいが、きわめて重要である。なぜなら、このべきである、べきでないというのは、ある新しい関係、断言を表わすのだから、これを注視して解明し、同時に、この新しい関係が全然異なる他の関係からいかにして導出されうるのか、まったく考えも及ばぬように思える限り、その理由を与えることが必要だからである

  4. さもなければ、長文であることを以て「わかりにくい」「読みにくい」「読む気がしない」「読める気がしない」「パッと見でわからない」などと放棄されるだけである

  5. 故意犯ではない。すなわち、「わかりやすくする = 矮小化」を、そこにある問題を把握した上で「わかりやすいことは良いことなのだから、矮小化があろうともかまわず続けるべきだ」と確信して推進しようとする態度を指している。そこでは、何らかの形で矮小化を正当化ないし「無視できる/すべきもの」として扱う議論を伴うことになるだろう。そうした信念ないし主張を伴わず推進をしているなら、それは確信犯というよりも「わかりやすさ」の信奉者と言った方が良いかもしれない。

  6. ソフトウェアの文脈では、例えば「関数型プログラミング」「Clean Architecture」「ドメイン駆動設計」なども、こうした矮小化の被害者となりつつあるように見える。

  7. 平凡であることとその有用性や汎用性は無関係であるし、この結論は妥当と思うがそれはそれとして、新しい視点をなんら提案できない歯がゆさは残る。

  8. 木田 元『現象学』より この方法なるものを料理の「作り方」とか自動車の操縦の「仕方」のような一定の結果を保証してくれる一連の「手続き」と考えるとすれば、それは論外である。方法とは本来、デカルトの解析の方法やヘーゲル弁証法がそうであったように、思考のスタイル、研究対象に立ち向かう態度のことなのである。

  9. ここで獲得できる「仕方」は一般に通じるものではなく、研究した本人にしか適用できないものかもしれないし、その方が多いだろう。それでも、その一人が「〇〇を可能とする能力・技能」を習得するためだけなら、その場ではそれで十分だ。

  10. 例えば『独学大全』は、この手の「方法」を学ぶための様々な道具を提供してくれるだろう。同書は「このようにすれば学習が成功する」という「仕方」はなんら提供しないが、一方で、「なんとかして学習をしたい」という人々が学習を続けるための手立てを多数紹介してくれる。「とにかく結果と結論だけ欲しい」という人間には一貫して辛辣で冷淡だが、「結果を自力で獲得したいが、できるだけの能力が無くて苦しい」という人間には親切で丁寧な一冊だ。