雑記帳または /dev/null

ソフトウェア開発、哲学、プログラミング、その他雑多なものもののメモ

メモ - 言語化能力とは何でありうるか

言語化」とは、何を対象とした行為なのか

  • 言語化」の対象は、思考・意識・感情といったもの、総じて人間の認識であるか
  • 思考や感情を精緻にテキスト化すること?
    • ≒ 記述能力?
    • 誰の思考・感情か
      • 他者のものでも良いのか
      • 他者のものである場合、それがどの程度「言語化」できているかどうかは誰がどうやって判定するのか、また判定可能なのか
    • 自分の思考・感情であっても、それがどの程度「言語化」できているかは判定可能なのか
  • ある事柄を様々な形式で表現すること?
    • ≒ 表現能力?
    • ex. 文学、詩
  • 何らかのテキストを出力すること全般?
    • 単なるテキスト出力とChatGPTによる「人間のような出力」を隔てるものはあるのか、あるとしたら何か、そもそも隔てられているのか
    • echo "Hello, World"言語化能力か?

「記述」と「表現」について

「精緻にテキスト化すること」と「様々な形式で表現すること」は排他か?

  • 「表現能力」があるとみなされた結果、連動して「記述能力」があるとみなされる側面
  • 「記述能力」があるとみなされた結果、連動して「表現能力」があるとみなされる側面
  • 「表現能力」と「記述能力」は相互依存か
    • そもそもこれら能力の有無は、恣意的な判断以外になりうるか
    • 人間の主観に由来しない「精緻さ」はありうるか

言語化」の前提条件は何か

  • 言語化」の対象が人間の認識だとしたら、人間以外に「言語化」は可能でありうるか
  • ex. ChatGPTのような、おおよそ精神と呼ばれるもの(思考・意識・感情)が内在しない存在による、しかしさも人間のようなテキスト出力
    • 「中国人の部屋」の思考実験
    • 言語化」の前提として、「言語化」を行う主体がなんらかの認識を保持していることを要求するか
    • 「認識を持つ」とは?「認識を持つ」ための条件は何か? → 精神?理性?
  • 哲学的ゾンビ
    • 「ChatGPTは精神も認識も持ち得ないが、人間は精神を持ち認識を持つ」は、どうやって判断され得るか?
      • 「中国人の部屋」の思考実験
    • やり取りしている人間が哲学的ゾンビであった場合、それは「ChatGPTと同じ」か、異なるか

言語化能力」は測定可能か

  • 論理的構造に限って言えば、その妥当性(無矛盾である、無誤謬である)は形式にのみ依存するので、一般に計測可能
  • 「論理的に妥当である ≠ 対象を精緻に記述しきっている」に注意

言語化」の前提として、主体が精神を持つことを前提とするかどうか

前提とする場合

  • その「記述」がどの程度精緻であるかを、どうやって判断するのか
  • 哲学的ゾンビについてはどう考慮するか
  • 「記述」した本人であっても、その精緻さを判断できるのか
  • 原理的に、有る種の「統計的」あるいは「傾向的」な評価にしかならないのではないか

前提としない場合

  • 「記述」ないし「言語化」の対象は何か
  • ex. ChatGPT の場合、「質問」という入力に対して「回答」という出力はある
    • なんらかのXを「記述」「言語化」した結果として「回答」が得られる
    • ただし、「質問」はこのXそのものではない。
    • 人間の場合であれば、やはり「質問」という入力に対して「〜という内容を回答するべきだろう」という思案し、その思案を踏まえて「回答」を記述するという手順になる
    • 対象Xに最もちかいのは、ここで言う「思案」にあたるか
      • X ≠ 思案だとしても、Xは「質問」でも「回答」でもなく、「質問」という入力から「回答」という出力が生まれるまでの中間に存在すると思われる
    • ChatGPTにそうした中間は存在するのか
  • 前提としない場合、「言語化能力」として評価し得るのは論理的妥当性のみ、ということになるか
    • しかし、論理的妥当性は内容それ自体の妥当性や「〜について適切に説明している」という状態は何ら担保しない。あくまで形式的な整合性のみである。
    • これは「言語化能力」を考える上で期待されたものであるか(「言語化能力」と呼称するにあたって妥当な内容であるか)

言語化能力」と「つまらなさ」「おもしろさ」について

  • 「つまらなさ」「おもしろさ」は「言語化能力」の測定に加味するべきか
論理的構造 おもしろさ
妥当 おもしろい 数学者にとっての高等数学・形式論理など
妥当 つまらない 数学嫌いにとっての高等数学・形式論理など
破綻 おもしろい 進次郎構文、ボボボーボ・ボーボボ
破綻 つまらない 見知らぬ酔っぱらいの与太話
  • 論理的な妥当性とは無関係に、「おもしろい」「つまらない」という評価は可能
    • 論理的妥当性はテキストの形式にのみ依存して決定する
    • 「おもしろい」「つまらない」はテキストと読者の関係性において決定する
      • 同じテキストであっても、受け手によって「おもしろい」「つまらない」の評価が一定しない原因
      • 同じテキスト・同じ受け手であっても、その時の状況・環境によって「おもしろい」「つまらない」の評価が一定しない原因
    • 評価のパラメータが全く異なっているので、互いに独立
  • 「おもしろさ」「つまらなさ」は、どちらかというと「演出能力」や「表現能力」が関わるものとして、分離して考えたほうが良いのではないか
    • ex. 落語、漫談、映画、アニメ、小説、etc...
    • 言語化能力」と「演出能力」は分離しておいた方が、より「精緻」な記述ができるのではないか
      • ex. 「言語化能力」は高いが、「演出能力」に欠けているため、「おもしろくない」
      • ex. 「言語化能力」は低いが、「演出能力」が高いため、「おもしろい」
  • 受け手が勝手におもしろがるタイプの「おもしろさ」

知の不確定性を拒否する振る舞いについて、考察と雑感

背景

下記スレッドでやり取りした内容の再整理あるいは追記

概要

ある事柄をどのように評価するかについて、「課題解決志向」と「課題解決主義」という2つの類型を考える。 この2類型を隔てるものは、「具体的利益に直結しないもの」について価値を認めるかどうかにあると整理できないだろうか。

「意味でない切断」すなわち非意味的切断の概念をヒントに「利益的」「非利益的」という区別を考える場合、「課題解決志向」「課題解決主義」はさらに一般化して記述できないか。 その場合、前者は「非利益的なものより利益的なものを優先する態度」として、後者は「利益的なものに価値を認め、非利益的なものには認めないか矮小化する態度」として、それぞれまとめられそうに思う。 さらにまとめるなら、「利益志向」と「利益主義」という形で整理できるかもしれない。

「利益主義」は、そもそもとして知が持つ不確定性・非自明性を排除して、知の持つ「意義」「価値」を確定・自明にしようとする態度として評価できるだろうか。 その結果として「利益主義」は、「Aは〜に役立ち、...という利益をもたらす」というものを重用する一方で、どういった具体的利益をもたらすかが不確定で非自明なものを「薀蓄」「雑学」としてその価値を認めないか矮小化する。

このような整理を採用するなら、「数学など役に立たない」「文学なんて役に立たない」「歴史なんて役に立たない」といった態度、またそれらを「趣味人の遊び」「単なる薀蓄」として粗雑にまとめる態度は総じて「利益主義」態度であると見なせるのではないか。こうした知の持つ不確定・非自明性を排除して「確定的で自明な世界」で安穏と過ごそうとする態度の行き着く先は、単純化され一元化された独善的な世界観・思想ではないだろうか。

「課題解決志向」と「課題解決主義」

「課題解決志向」と「課題解決主義」をここでは以下のように区別する。

  • 課題解決志向 = 具体的な課題解決に直結する、あるいは直結するとみなしたものとそうでないものとがあった場合、前者へ優先的に関心を向ける
  • 課題解決主義 = 具体的な課題解決に直結する、あるいは直結するとみなしたもののみに価値を認め、そうでないものの価値は認めないか矮小化する

「課題解決志向」は、読んで字のごとく「課題解決につながるものをより志向する」という態度である。課題解決に直結するもの、あるいは直結するとみなしたものに優先的に関心を向ける態度であり、また「優先的に関心を向ける」という程度にとどまる。課題解決に直結しないものについて、そのことを以て何らか評価・裁定を下すことは無い。単に、優先的には関心を向けないというだけである。

一方、「課題解決主義」は、課題解決につながるかどうかを以てその価値・意義を評価する。前者へ関心を向けるのみならず、課題解決につながる/つながるとみなしたことを以てそれを「有意義」「価値がある」とみなし、一方で課題解決に直結しないものについてはその価値を認めないか、著しく矮小化した評価を与える。「数学なんてただのパズルだ」「哲学なんてただの"言葉遊び1"だ」「歴史なんてただの薀蓄だ」といった態度は、ここでいう「課題解決主義」の典型である2。例えば「歴史なんてただの薀蓄だ」という態度について、歴史に関する知識・理解はそれ自体がなんらか具体的な利益には直結しない(ことが多い)が、その事を以て歴史の価値を「薀蓄」として矮小化している。

さらなる一般化:「利益志向」と「利益主義」

以前、非意味的切断という概念をヒントとして「(利)益的」「非(利)益的」という概念を考えた。 philomagi.hatenadiary.jp

「課題解決志向」と「課題解決主義」は、この「利益的」「非利益的」という概念の特に「利益的」という概念を使って、より一般化できるのではないか。

ここで言う「利益的」は、すなわち「具体的な利益と直結している(とみなされる)もの」を指す。「Aは課題Xを解決する」と言うことができる時、Aは「課題Xを解決するという利益をもたらす」という点で「利益的」なものである(とみなされる)。 「課題解決志向」「課題解決主義」はいずれも、「課題Xを解決するという利益をもたらす」という観点へ強く注意を向けるという点で、より一般には「利益的」なものにより注意を払う態度であると言える。このことから、「課題解決志向」と「課題解決主義」は、それぞれ「利益志向」と「利益主義」の具体例である、と再整理できるのではないか。

「利益志向」とは、様々な事柄の内で「なんらか具体的な利益をもたらす」とみなされたものへより強い関心を払う態度である。 「利益主義」とは、「なんらか具体的な利益をもたらす」とみなされたものにのみ価値・意義を認め、そうでないものについては認めないか矮小化する態度である。 「課題解決志向」「課題解決主義」は、「なんらかの具体的な利益」として「課題Xを解決する」という種類の「利益」を設定したものとして、すなわちそれぞれのいち具体例として位置づけられる。

「課題解決主義」「利益主義」が取りこぼすもの

そもそも、おおよそ知に類するものの利益は不確定かつ非自明である。むしろ、不確定かつ非自明であるからこそ、事後的に様々な意味・価値を与え、様々に応用することができる。事前に価値が定まらない、「何の役に立つかわからない」がゆえの = 「非利益的」であるがゆえの価値というものはがあるのではないか。 philomagi.hatenadiary.jp

そうした知の性質に対して、「課題解決主義」「利益主義」は具体的な利益(課題解決)に結びつくかどうか/結びつくと見なせるかどうかで、対象の価値を決定づけようとする。「(私は)具体的利益に通じるものを優先する」という「利益志向」とは異なり、「利益につながる/つながるとみなした物事にのみ価値がある」と確定させようとする。物事の価値は決定的・確定的・具体的であるからこそもたらされるのであって、「どんな利益をもたらすかわからない」というのはむしろ価値と反するものであるとみなす。

「利益主義」は、そのように振る舞う人間が「これは〜という具体的利益をもたらす」と理解できるもの、あるいは「これはとにかく具体的な利益をもたらすに違いない」と直感できるものについては、その対象の価値を認め、様々な応用や活用の可能性を認める。その一方でその条件を満たさないものは早い段階で「薀蓄」「雑学」呼ばわりして切って捨てる(しかも、しばしば「そうした切り捨ては正当なものである」という頑迷な信念すら伴う)ために、活用・応用する可能性も同時に廃棄される。

「利益主義」は、「観察者がすぐに理解できる程度のもの」「観察者が"役に立つに違いない"と信じ込んでいるもの」は拾い上げ得るものの、そうではないものをことごとく、それも積極的に取りこぼしていく。しかもその取りこぼしは、「価値がらるもの、有意義なものを選択しているのだ」という頑迷な信念のもと、積極的に行われてしまう。しかし「利益主義」において認められ得る「価値」「意義」は評価者の能力(理解力、想像力、etc...)に収まるものに限定されてしまうから、実態は独断と偏見による選別でしかない。

「利益主義」の行き着く先

「利益主義」は物事の価値・意義を単純化する。「利益に直結する(役に立つ)」か、「利益に直結しない(役に立たない)」かの単純な二元論で物事を評価する。前者には価値を認めながら、後者については認めないか矮小化する。前者をこそ「価値のあること」「有意義なこと」と定め、後者については「無駄なこと」「取るに足らない薀蓄」といったレッテルを貼り、それ自体に取り組む価値や意義を認めない。

しかも実際のところ、「利益主義」が定める利益に直結するかどうかという指標は、非常に狭く恣意的なものに過ぎない。「利益主義」の観点から「利益に直結する(役に立つ)」と判断されるかどうかは、ひとえにその判定者が具体的利益を想像・推測できるかどうかの一点にかかっている。判定者が利益を想像することができれば「利益に直結する」とみなされるし、想像できなければそうはみなされない。これはなんら一般的なものでも普遍的なものでもなく、独善的・独断的な評価以外にはなりえない。

それにも関わらず、「利益主義」的な言論は未だ健在である。「数学など役に立たない」「哲学など"言葉遊び"だ」「歴史など薀蓄だ」といった言論がそれである。これらは数学・哲学・歴史といった具体的利益、特に資本主義社会における利益にはなかなか直結せず、様々な考慮と応用を経てようやく、何らかの利益に結びつく可能性が生じる。しかも、「利益に結びつく可能性」が生じるところまでが精々で、実際になんらかの利益をもたらすかどうかは考慮・応用を省略してはわからない3「非利益的」なものである。そのことを以て、「利益主義」はそれらを「役に立たない」とみなす。考慮や応用といった不確定性・不確実性を以て価値を否定するか矮小化し、考慮の対象から一般に除外することを正当化しようとする。

そうして得られた「利益主義」的世界は、なるほど単純明快で、確実で、「わかりやすい」世界だろう。「役に立つ」ものだけを追求していれば良いのであって、そうでないものは物好きが趣味で漁るにまかせておけば良い。しかしそれは「利益主義」というフィルター内にのみ存在する仮想空間でしかない。一方で、その仮想空間で処理できない複雑で「わかりにくい」物事は、それがかつてどのような意義を持とうと、あるいは将来どのような意義があり得ようと、取り除かれていくか矮小化されて取り込まれる。複雑で不確定であるが故の意義や価値などは捨てられ、さらなる単純化が繰り返される。

「主義」ではなく「志向」へ

果たして現代の様々に発達した社会・技術・文化は、そのような単純化された世界でも成立しえただろうか。今後どのような役に立つかもわからないもの、詩・文学・音楽といった各種芸術であったり、「真理を明らかにしたい」という欲求に突き動かされて発展していった哲学・思想であったり、様々なしくみ・構造を厳密に数式・記号として組み上げようとする取り組みであったり、そうしたものが存在したからこそ現代の発展があったに違いないのではないか。それらを通じて文明社会はその幅を広げるとともに、「我々はどのような存在であるか」「我々は何を行っているか」といった認識を精緻にしてきたのではないか。

念の為明言しておくと、これは「非利益的」なものこそが最も重要なものである、という主張ではない。それは単に「利益主義」をひっくり返した「非利益主義」でしかなく、「利益主義」とは別のベクトルへ単純化した仮想空間に行き着くだけである。重要なのは、「利益的」なものか「非利益的」なものかの二者択一ではなく、両者の併存である。「非利益的」なものは社会の幅を広げただろうが、「利益的」なことがらがあったから社会はこれまで持続できたのだろう。そして「非利益的」なものと「利益的」なものは互いに独立・背反なものではなく、むしろ相互依存の関係にあるだろう。

「利益的」なものによって自らを持続し、「非利益的」なものによって認識を精緻かつ広範にする。そうして広く深くなった認識は、それまで「非利益的」でなかったものに対しても応用・活用する発想を可能にする、すなわち「非利益的」視点の発展によって「非利益的」なものが「利益的」なものに転換し得る。「利益的」なものは社会に直接かつ具体的な変化と影響を与え、その変化と影響は新たに「非利益的」な領域と視点をもたらす。この両者の循環した影響によって、社会は持続しつつ発展してきたのではないだろうか。

「利益的」なものに傾倒するにせよ「非利益的」なものに傾倒するにせよ、その傾倒の仕方が「主義」的であってはならない。それは世界を単純化し、世界に恣意的かつ独善的な限界を設ける。いずれの「主義」からも距離を取り、精々「利益志向」か「非利益志向」に留める。最も良いのは「利益志向」「非利益志向」からすらも距離を取ること、つまり「私は〜を主に扱う」という制限すらも取り払うことだろうが、そこまで徹底することが難しければ、次善策としての「志向」は悪くない選択だろう。

結論として取り立て目新しいことも無い、凡百なものである。だがしかし、「志向」を取るような口ぶりを取りつつ随所から「主義」的発想が漏れ出ているケースも多い。ここで繰り返し挙げた数学・哲学・歴史などは、特に「主義」的発想の被害を被っているように見える。凡百な結論ながら、確かに「主義」から距離を取れている人間は数えるほどもいないのではないかと思う。

参考書籍

武田砂鉄(2020)『わかりやすさの罪』朝日新聞出版

www.amazon.co.jp

全編を通じて「わかりやすい」「わかりやすさ」に対する警鐘を鳴らす。「わかりやすさ」を求めることによる世界の単純化、それに伴った複雑さを扱う能力を喪失することへの危惧など。

千葉雅也(2018)『思弁的実在論と現代について』青土社

https://www.amazon.co.jp/dp/4791770803

「非意味的切断」をヒントとして、「利益的」「非利益的」という分類を考察。

千葉雅也(2017)『勉強の哲学 来たるべきバカのために』文藝春秋

https://www.amazon.co.jp/dp/4163905367

「非意味的切断」をヒントとして、「利益的」「非利益的」という分類を考察。

読書猿(2021)『独学大全公式副読本――「鈍器本」の使い方がこの1冊で全部わかる』ダイヤモンド社

https://www.amazon.co.jp/dp/B09FDTY62B

学問が「役に立つ」かどうかについて


  1. ここで言う「言葉遊び」は、いわゆる俗語かつ蔑称としての「言葉遊び」である。詩や文学において、様々な表現方法をときに意図的に、時に偶然に任せて様々に用いるような、まさしく「言葉を使って遊ぶ」ような活動はここに含めないし、含むべきではない。本来なら「言葉遊び」という語をこのように使うのは避けたかったが、俗語ということもあり他にちょうどよい表記も浮かばなかったので、今回は脚注で補足することで妥協した。
  2. こうした態度は「課題解決志向」においてはどのような形を取るかといえば、そもそも存在しない。単に後回しにするというだけで「ただのパズル」「ただの"言葉遊び"」「ただの薀蓄」といった評価は行わない。強いて言えば「私は今の所興味がない」といった態度が精々である。
  3. このことは数学・哲学・歴史といった一部の学問に限った話ではない。既述の通り、およそ知に類するもの一般がそうである。

自動化の功罪?としての矮小化と、その対処について

背景

「◯◯ができない/上手くこなせない」という時、対処方針としては「◯◯を可能とする能力・技能を身につける」「◯◯をする必要を無くす」というのがとりあえず想定できる。しかし、この類の話題は後者に偏りがちな、それも過剰にそちらへ傾くことがあるようにしばしば感じる。とりわけ、ソフトウェアの文脈において顕著ではなかろうか、という感覚がある。すなわち、「どうやったら〜できるだろうか」を考えるのではなく、「〜をしたくないので、...の方が良い」「簡単に〜をやってくれる何かが欲しい」といった方向に、時として過剰に傾くことがあるのではないか。

何か計測や集計したわけではないので、体感・肌感という名の想像あるいは妄想ではある。それをわきまえた上で、実際にこうした傾向があるとしたら、あるいはそのような傾向が生じるとしたら、何がそれをもたらす(もたらし得る)のだろうか。また、そうした傾向は具体的にどのような形で表出し得るのだろうか。そういったことを考えてみたい。

自動化の功罪?

ソフトウェアやハードウェアの発展によって世の中の様々な事柄が自動化されてきたが、そうした様々の自動化の弊害が、こうした事態が起きる理由の一つとして考えられるだろうか。「する必要を無くす」が、すなわち「不要化」がいくつも達成されてきたのを見てきた、あるいは普段からそれを体験していて、しかもそれは快適だから、多くの物事において第一選択にしがちになっているのでは、という推測。 電話も当初は交換手によって手動で繋げられていたのが、現代ではシステム化されて番号から自動で接続される。ニュースサイトの更新や新商品の発売も、設定さえ行えば自動で取得され通知される。とりわけソフトウェアの文脈では自動テスト・静的解析・CI/CDなど、様々な自動化がなされ、かつその恩恵が実際にもたらされている。

ただ一方で、こうした自動化等による「不要化」に対する信頼が、ソフトウェアの文脈においてすらもしばしば過剰に働いているのではないかと感じることがしばしばある(むしろ、ソフトウェア文脈の方が顕著かもしれない1)。「不要化」自体が一般に問題だという話ではない。それの恩恵を普段から受ける(あるいは受けることを切望し続ける)ことによって、「不要化」の有効/有意義な範囲を過剰に広く取るクセが付くことは無いか、それによって、「不要化」する必要の無い/すべきでないものにまで「不要化」の有効性を期待・信奉してしまっている状態に陥りがちではないか、という疑念である。 SFなどでさんざん描かれてきた「AIがあらゆる人間の意思決定を代行する」とか「AIが人間を支配する」といった世界観は、「不要化」の有効範囲を広げすぎた極致の一つである、とも言えそうだ。その世界においては、人間自身の思考や意思決定すらも「不要化」可能かつそれが有意義な範囲であるとして見なされている。しかしそうした世界は多くの作品ではディストピアとして、人間を人間足らしめるものを捨て去ってしまった喜ばざるべき世界として描かれている2

「不要化」への信頼と「わかりやすさ」への期待がもたらす、矮小化とその是認ないし許容

専門的あるいは複雑な概念・議論について、それを何とか理解しようともがくのでなく、かといって「こんなものは私に不要だ」「私にはとてもこれは理解できない」と理解を放棄して諦めるのでもなく、「わかりやすい」「パッと分かる」何かを求め続ける態度の背景として、先述のような話を考えられないか。すなわち、(自分にとって)難解でなかなか理解できないという事態に遭遇した時、その理解を半ば「自動化」してくれるような、努力して理解することを「不要化」してくれるような、そうした何かの実在あるいは実在可能性を素朴に信じてしまう、あるいは常に期待し続けるような思考・態度が、自動化とその実現が繰り返されることでより一層強化されてはいないか。

このような思考・態度において、難解な対象について「様々な文献を調査してその情報を整理・検討する」だとか、「その意味内容を分析して細かな妥当性や整合性を吟味・検討する」といった行為は単純に「コスト」であり、取り除けるなら取り除くべきものとして評価される。すなわち、「不要化」の第一候補である。それらが本当に取り除いてしかるべきものかどうかは吟味されず、それら「コスト」が獲得を妨げている(と見なされている)「リターン」が上回るなら、進んで「不要化」されて然るべきものと捉えられる。

「わかりやすい説明」「パッと見てわかる図解」を希求する態度は、まさにこうした態度の典型例と言えるのではないだろうか。テキストを読み込んでその内容を整理するといった「コスト」を予め行い、その結果だけをもたらしてくれるという点で、「わかりやすい説明」「パッと見てわかる図解」などは、受け取る側にとってそれは有る種の「自動化」である。加えて、「コストとリターンのバランスさえ取れるのであれば、その対象が何であれ自動化はどんどん為されて然るべきである」という態度と組み合わさるとき、素朴には以下のような結論へ自ずから到達するのではないだろうか。

難解な概念や議論を私が理解する必要はない。そんなコストは、「わかりやすい説明」「パッと見てわかる図解」を作るシステムが払えば良いのである。
私はその結果から得られる内容さえ把握していれば良い。そんなコストはどんどん「自動化」されて取り除かれるべきだ。

難解な概念や議論を理解できていないことが問題だとしたら、それは「わかりやすい説明」「パッと見てわかる図解」が用意されていないからであって、私(達)の問題ではない。
対処すべきはいかにして「わかりやすい説明」「パッと見てわかる図解」を実現するかという点であって、私(達)がどうこうするものではないし、その必要もない。

この「素朴な結論」をどう評価するか。少なくとも私は、これを自動化がもたらした(かもしれない)現代の病理であり、解消されるべきものと評価する。「水は低きに流れる」と言うことわざが示すように、自動化によって様々な事柄が「不要化」され「快適」になった現代において、このような結論はしばしば当然のように映るだろうし、それは人間の有る種「本性」的な結果としても捉えられるだろう。しかし、ヒュームが指摘する3ように、仮に人間の「本性」が事実このような性質を持つもの「である」としても、そのような性質を持つこと/持ち続けることについて「そうであるべき」あるいは「そうであっても良い」という評価を直ちに導くことはできない。実態がどうであるにせよ、それとは別にそれを是とするか否とするかの評価は可能だし必要だ。

私は、このような「素朴な結論」を否とする。「わかりやすい説明」「パッと見でわかる図」は、そうするために畢竟多くの情報を捨て去ることになる。想定読者が持ち得てないだろう前提や制約、あるいはその人々が興味関心を示さないだろう話題や議論は、捨て去られるか省略される4。それによって某かを「理解した」という感覚を容易に得ることは快感で快適ではあるが、一方で、難解で複雑な対象を強く矮小化しながら自身の内で理解することになる。 もとより人間は自身が理解可能な範囲でしか理解できない(=矮小化は不可避である)という面もあるだろう。しかし、「わかりやすい説明」「パッと見でわかる図」は、そうした矮小化の存在を覆い隠す。複雑で難解な部分は省略され取り除かれているということは、つまり、受容者がその認識において矮小化を行う以前にその媒体においてすでに著しい矮小化が行われているのである。それは「わかりやすい」が故に、スムーズに「XとはYである」という図式を受容者に認識させるがゆえに、矮小化の存在や範囲そのものを認知困難にさせる。既に「XとはYである」という明快で安定した図式を得たにも関わらずあえてその図式を疑い破壊することは、安定を捨て不安定へ向かうことを意味するが、この選択は一般に人間にとって困難だ。

このように、「わかりやすい」媒体においては、矮小化が暗黙的に二重化していると考えられる。第一に「わかりやすくする」という段において作者による矮小化が生じ、第二にそれを受容する段階で受け手ごとに矮小化が生じる。この二重化が、矮小化の自覚を困難にする。安定を破壊することそれ自体が困難であるにも関わらず、ここにおいてはその破壊自体も二回にわけて、それもその矮小化を為す主体が異なっていることを把握しながら行う必要が生じているからだ。 先述の「素朴な結論」は、こうした矮小化とその軽減を困難にする図式を、素朴にかつ無邪気に是認し、ともすると推進し得る。制御困難な矮小化を、それと気づかず、あるいは確信犯的に5押し広げ、様々な概念を「わかりやすい」形に矮小化して広げてしまう。ソフトウェア文脈に関して言えば、「オブジェクト指向〇〇」はその代表的な被害者なのではないだろうか。そしてその被害者は、今なお増え続けつつあるように見える6。そうしてかつて知の巨人達が多くの時間と労力をかけて積み上げたものは矮小化され、ただのツールセットやレシピ集へと変化し、背景やそもそもの課題設定を無視して「取るに足らないもの」「今となっては不要なもの」と簡単にみなされ、捨て去られていく。このような事態を是認あるいは容認できるだけの根拠や価値基準を私は持ち合わせていないし、また、これは積極的に批判されなくてはならないという価値基準を私は採用ないし信仰する。

矮小化を防ぐ、あるいは軽減する

コンピュータを介するにせよそうでないにせよ、何かしらの「自動化」ないし「不要化」による世界をの単純化は、時として矮小化を生じる。そのような矮小化を防ぐ、あるいは矮小化が生じるにしてもその程度を軽減しなければならないという立場を私は取る。

「◯◯ができない/上手くこなせない」という事態に遭遇した時、そうした矮小化の防止あるいは軽減を実践するために必要なのは、「◯◯をする必要を無くす」のではなく「◯◯を可能とする能力・技能を身につける」という対処方針となるだろう。つまり訓練と教育であり、紀元前から現代までずっと語られ続けている難問に立ち向かわなければならないという、ごく平凡にして何番煎じかわからない結論であるが、少なくとも私にはそれぐらいしか浮かばない7

注意すべき点として、能力・技能を身につけるための訓練・教育といっても、それが形式主義教条主義に陥っては本末転倒である。いわゆる世のハウツー本などがその典型で、「〜をすれば良い」「必ず〜と〜をすること」といった形式化やルール化は、「わかりやすく」はあるが、具体的にすぎるが故に、その応用範囲は著しく狭まる。そこでもやはり矮小化が始まっている。そもそもとして、我々人間の認知や認識、思考の仕組みや構造について全様が解明できたわけでもないのに、一定の形式やルールにはめ込もうというアプローチに無理がある。

「〜を実現する仕方」を直接身につけようとすると、ハウツーに陥ってしまう。一般に通用する「〜を実現する仕方」というのは、恐らく現代人類には解明できていないし、今も昔も解明できたことなどないだろう。学ぶべきは「「〜を実現する仕方」を研究する方法」ではないか。手順ではなく思考の様式を、「仕方」を学ぶのではなく「方法」を学ぶのである8。「方法」の学習がハウツーと一線を画すのは、「方法」の学習によって、「方法」自体を研究することも可能になりうる点にある。「Xを研究する方法」を学んだなら、その「方法」は、「Xを研究する方法」を研究する「方法」を考える、という形で応用できる可能性がある。ハウツーが個別具体的であるが故に個別具体へ対処する「仕方」に留まらざるを得ない一方で、「方法」は「「方法」の方法」という形で新たなメタを生み出しうる。

こうした意味での「方法」の探求こそが、「◯◯を可能とする能力・技能」の習得へとつながってゆく。「〇〇を可能とする能力・技能」を身につけるための訓練・教育という「仕方」を実現しようとするなら、様々な課題がある。その課題を発見し検討し吟味することを可能とするのが「方法」である。「方法」を駆使して課題を発見・検討・吟味することで、「〇〇を可能とする能力・技能」を習得するための「仕方」に近づき得る9。その結果として「〇〇を可能とする能力・技能」を習得できる可能性が出てくる。

最も、「方法」はそれ自体多種多様であり変数も多く複雑で、決して「わかりやすい」ものではないし、そもそも安定して運用することができるかどうかから定かではない。しかし、矮小化およびその連鎖を脱却しようと欲求するならこの難題に立向うことはどこかしらで必然となってしまう。それは多くの時間において快適でもないし快感ももたらさない「棘」であるが、同時に、矮小化の檻を打ち破る「槍」となるのかもしれない10

まとめ

  • 困難に遭遇した時、「◯◯を可能とする能力・技能を身につける」「◯◯をする必要を無くす」という二つのアプローチが考えられる。しばしば、後者のアプローチに偏重したり、後者のアプローチが可能ならば常に後者が望ましいかのように扱われる場面があるように思う
  • 「上記のような場面が実際にある」という仮定を置いたとして、それはどのように生じうるのか。現代では自動化によって様々な「◯◯を不要にする」が達成されているが、それがこうした場面の背景になりうるのではないか。
  • 自動化による恩恵をあちこちで頻繁に受け続ける、あるいは最初からそれが当たり前になっていることで、「自動化が実現される = 良い」という価値観が醸成されていないか。それは、「わかりやすさ」を要求して難解で複雑な対象の理解を試みることを拒絶する態度の強化にも、一役を担っているのではないか。
  • 「自動化が実現される = 良い」という素朴な価値観によって、難解で複雑な対象を矮小化することへの抵抗が希薄化あるいは消滅してしまっていないか。「どうでもよいこと」「しかたないこと」と軽視されていないか。そのような事態を、私は否定的に評価する。
  • 矮小化を是とせず、許容も諦観も拒否するのなら、必要なのは能力・技能を習得するための訓練・教育しかないというありきたりな結論へ帰着する。そこでは、「〜を実現する仕方」よりもその「仕方」を考える思考様式すなわち「方法」の吟味と研究が重要である。

  1. ソフトウェア文脈においても、自動化は「銀の弾丸」として、すなわちあらゆる問題を解決する万能の処方薬として扱われてはいない。むしろ、自動化すべき範囲とそうでない範囲は区別せよ、という議論自体は多く有る。しかし、そうした議論で「自動化すべきでない」とされる理由は、多くの場合「コストとリターンが釣り合わないから」という評価であることが多い。これは同時に「リターンがコストを上回るなら、自動化せよ」を意味する。すなわち、自動化をするべき(するのが良い)かどうかはひとえにコストとの兼ね合いという問題でしかなく、自動化それ自体の是非は実は論じられていないし、むしろ自動化は実現できるなら基本的に「良い」ものと見なされているように思う。

  2. 手塚治虫火の鳥 未来編』では、まさしくコミュニティの意思決定が人工知能に委ねられ人間はそれに従うのみとなった世界が描かれている。この作品では人工知能の暴走によってコミュニティ間の核戦争が勃発し、人類は滅亡した。

  3. デイヴィッド・ヒューム『人性論』 3.1.1 どの道徳体系ででも私はいつも気がついていたのだが、その著者は、しばらくは通常の仕方で論究を進め、それから神の存在を立証し、人間に関する事がらについて所見を述べる。ところが、このときに突然、である、ではないという普通の連辞で命題を結ぶのではなく、出会うどの命題も、べきである、べきでないで結ばれていないものはないことに気づいて私は驚くのである。この変化は目につきにくいが、きわめて重要である。なぜなら、このべきである、べきでないというのは、ある新しい関係、断言を表わすのだから、これを注視して解明し、同時に、この新しい関係が全然異なる他の関係からいかにして導出されうるのか、まったく考えも及ばぬように思える限り、その理由を与えることが必要だからである

  4. さもなければ、長文であることを以て「わかりにくい」「読みにくい」「読む気がしない」「読める気がしない」「パッと見でわからない」などと放棄されるだけである

  5. 故意犯ではない。すなわち、「わかりやすくする = 矮小化」を、そこにある問題を把握した上で「わかりやすいことは良いことなのだから、矮小化があろうともかまわず続けるべきだ」と確信して推進しようとする態度を指している。そこでは、何らかの形で矮小化を正当化ないし「無視できる/すべきもの」として扱う議論を伴うことになるだろう。そうした信念ないし主張を伴わず推進をしているなら、それは確信犯というよりも「わかりやすさ」の信奉者と言った方が良いかもしれない。

  6. ソフトウェアの文脈では、例えば「関数型プログラミング」「Clean Architecture」「ドメイン駆動設計」なども、こうした矮小化の被害者となりつつあるように見える。

  7. 平凡であることとその有用性や汎用性は無関係であるし、この結論は妥当と思うがそれはそれとして、新しい視点をなんら提案できない歯がゆさは残る。

  8. 木田 元『現象学』より この方法なるものを料理の「作り方」とか自動車の操縦の「仕方」のような一定の結果を保証してくれる一連の「手続き」と考えるとすれば、それは論外である。方法とは本来、デカルトの解析の方法やヘーゲル弁証法がそうであったように、思考のスタイル、研究対象に立ち向かう態度のことなのである。

  9. ここで獲得できる「仕方」は一般に通じるものではなく、研究した本人にしか適用できないものかもしれないし、その方が多いだろう。それでも、その一人が「〇〇を可能とする能力・技能」を習得するためだけなら、その場ではそれで十分だ。

  10. 例えば『独学大全』は、この手の「方法」を学ぶための様々な道具を提供してくれるだろう。同書は「このようにすれば学習が成功する」という「仕方」はなんら提供しないが、一方で、「なんとかして学習をしたい」という人々が学習を続けるための手立てを多数紹介してくれる。「とにかく結果と結論だけ欲しい」という人間には一貫して辛辣で冷淡だが、「結果を自力で獲得したいが、できるだけの能力が無くて苦しい」という人間には親切で丁寧な一冊だ。

設計のメタ性について

主題

「設計がメタ性が持つ」というとき、そのメタ性は何に対するどのようなメタ性なのか。換言すれば、「設計」は何に対してどういった形で「メタ」としての地位を持つのか。

「設計」と定型作業について、「設計」からメタ性が失われた時、それは定形作業と化し、もはや「設計」ではないという。この関係性および変化のプロセスは、どのように説明できるだろうか。

この問いについて、G.ベイトソンの議論を援用しながら検討してみる。

前提

ここで言う「設計」は、ソフトウェア開発の文脈で語られる「設計」の範囲に、一旦限定する。 議論の内容自体は、およそあらゆる人工物の「設計」活動一般に適用できるだろうと目論んではいるが、今の所「設計」という活動について筆者自身が知見を持っているのがソフトウェアの領域に限られており、一般に適用できているか検証する能力が筆者に無い。そのため、ここではソフトウェアの開発プロセスにおける「設計」についての検討として、一旦範囲を狭めている。

ベイトソンによる論理階型のはしご

ここでは、『精神と自然』においてG.ベイトソンが提示しているフォーム-プロセスという構造を参照してみる。というのも、ベイトソンが『精神と自然』とで論じているフォーム-プロセスという形式が、設計のメタ性を検討する上で良く適合しそうに思われるからだ。

『精神と自然』においてベイトソンは、プロセスの観察とフォームの形成を繰り返して異なる論理レベル(論理階型)へと上がることを繰り返す構造、「フォームとプロセスを行き来する弁証法的ジグザグ梯子という形」という構造およびそれに基づく分析を提唱した。この構造を、ベイトソンは下のように図示している。

G.ベイトソンにおけるフォームとプロセスの図(佐藤良明 訳, 岩波文庫, p.360)
G.ベイトソンにおけるフォームとプロセスの図(佐藤良明 訳, 岩波文庫, p.360)

この図式の基となったニューギニアのイアトムル族文化研究において、ベイトソンは以下のような分析を行っている。

  1. 部族の行動を記述(プロセスの観察)
  2. 部族における男・女それぞれの類型化(フォームの形成)
  3. 男女がどのように相互作用するか、男たちの行動が女たちの行動をどう規定し、またその逆がどう起こるかについての観察(プロセスの観察)
  4. 対称型-相補型という相互作用の類型化(フォームの形成)
  5. 対称型-相補型という異なるプロセスがどのように相互作用するかの観察(プロセスの観察)
  6. 相補的な主題動詞が結びつくケースについて、「末端連結」というラベルを導入(フォームの形成)

プロセスの観察を通じてそこに様々な類型・分類が見いだされ、その類型・分類はフォームとして一定の形式・名称を与えられる。 さらにそのフォーム同士が相互作用する仕方についてさらなる観察と類型・分類が行われ、より高次のフォームが形成される。より高次な論理レベル(論理階型)へ、すなわちよりメタな次元へと上がっていく分析パラダイムとして、このような「ジグザグ梯子」をベイトソンは考案・提唱した1

この「ジグザグ梯子」についてベイトソンは次のように語る2

ここでの論点は、右のパラダイム(引用注:「ジグザグ梯子」のこと)の有効性が、私という特定の精神による特定の理論の成立過程に限られるものではないということだ。 (中略) 加えて私は知覚自体、このパラダイムに従う性質のものだと考える。学習のモデルも、この種のジグザグ型パラダイムの上に築くべきだろうし、社会生活においても、愛と結婚、教育と地位との関係が、やはり同種のパラダイムに必然的に従うと思われる。進化に目を向けても、体細胞的変化と系統発生的変化との間や、ランダムなものと選択されたものとの間に同様の関係があり、さらに変異(バリエーション)と種分化(スペシエーション)、連続と非連続、数と量といった抽象的レベルにおいても、同様の関係が広がっているようである。

ベイトソンはこのパラダイムをイアトムル族の文化研究という過程で見出した。しかし、このパラダイムベイトソン個人に依存するものでも、文化研究という特定理論に依存するものでもないとしている。むしろ、知覚・学習・社会生活・進化、さらに抽象概念においてすらも、同種のパラダイムが成立しているだろうとベイトソンは言う。 筆者の目から見た時、設計という活動もまた、このパラダイムに従う形で説明できるように思える。そしてその説明過程で、掲題である設計の「メタ性」についても具体化できるのではないかと思う。次章では、実際にこのパラダイムに基づいて設計を分析してみる。

設計が「メタ」となる対象について

こうしたベイトソンの「ジグザグ梯子」を道具として、設計が何に対するどのような「メタ」として位置付けられるのかを考えてみる。さしあたって、「設計」と「設計する」の区別をしておくと良いだろう。ここでは以下のように定義する。

  • 「設計」 = 名詞。プロセスから抽出された類型・分類。
  • 「設計する」 = 動詞。名詞としての「設計」を形づくる過程。類型化・分類化。

「設計する」を実践する時、私達は様々な要素を抽出し、類型化・分類化する。そうして得られた分類・類型は、時にパッケージという形で、時にクラスという形で、時に代数的データ型という形で、ソフトウェア上に表現される。この過程を経て、私達はソフトウェアの「設計」を形成する。すなわち、「設計」とは「設計する」という類型化・分類化を通じて得られた形式、すなわちフォームである。

「設計」がフォームであるとするなら、このフォームを形成するために観察されるべき個別のプロセスが存在するはずである。「設計する」はこの意味におけるプロセスではない点に注意。「設計する」は、プロセスの観察からフォームとしての「設計」を形成する過程であって、ベイトソンの「ジグザグ梯子」におけるプロセスの位置にはいない。むしろ、プロセスからフォームを導く矢印が「設計する」と照応すると考えた方が良いだろう。

では、ソフトウェア開発において「ジグザグ梯子」内のプロセスに該当するものは何か。ユースケース、ストーリー、業務フローなどといったものが考えられるだろう。実際、ソフトウェア設計において設計は常にユースケース、ストーリー、業務フローといった何某かの行動・活動(=プロセス)を観察することから始まる。これら個別のプロセスを観察し、各プロセスで取り扱われる要素を抽出し、抽出した要素を類型化・分類化してモデル化する。こうした過程を、すなわち「設計する」ことを経て、「設計」というフォームが獲得される[^2]。

ユースケース、ストーリー、業務フロー、etc...といったプロセスの類型化・分類化を、すなわち「設計する」ことを通じて、「設計」というフォームを得る。この関係をベイトソンの図に当てはめると、以下のようになるだろう。

ユースケース、ストーリー、業務フローといったプロセスに対して、「設計する」という行為を通じた類型化・分類化がなされることで、フォームとしての「設計」が形成される
フォームとしての設計と、プロセスとしてのユースケース、ストーリー、業務フロー

こうしたプロセスとフォームの関係、すなわち、あるプロセスの観察からあるフォームを導出するという関係性について、ベイトソンは「論理階系の梯子を上がる」と表現している。これは、「よりメタな次元に移行する」とも言いかええて良いだろう。この図に基づくなら、「設計」はユースケース、ストーリー、業務フローといった有る種のプロセス群に対して、一段メタの地位に立っていることになる。そしてここで言う「メタ性」は、個個別別のプロセスについてその知識や構造を類型化・分類化したものとしての「メタ性」となる。例えて言うなら、秋田犬・プードル・ドーベルマンといった個に対する「犬」という類の関係と同じあるいは近しい、となるだろうか。

以上を以て、一つ目の問いに対する結論を定める。

「設計がメタ性が持つ」というとき、そのメタ性は何に対するメタ性なのか。換言すれば、「設計」は何に対して「メタ」としての地位を持つのか。

設計のメタ性は、ユースケース、ストーリー、業務フローといったプロセス群に対するメタ性である。またこのメタ性は、個(プロセス)に対する類(フォーム)として成立する。

設計からのメタ性喪失と、定形作業について

「設計からメタ性が失われると、定型作業になる」という命題について、これはいかなる現象なのか。メタ性の喪失によって、どのように「設計」が定形作業へと変化するのか。この問についても、引続きベイトソンの「ジグザグ梯子」を用いて分析してみたい。

第一に、定型作業について検討してみる。先のフォーム-プロセスで構成される「ジグザグ梯子」において、これはどのように位置付けられるか。ここで言う定型作業とは、「設計からメタ性が失われたもの」として定められている。すなわち定型作業 = メタ性を伴わないものであるのだから、定形作業はフォームではありえない。フォームは常にプロセスに対する類型・分類として、すなわちメタとして位置付くからだ。ならば、定型作業が立ちうる位置はプロセスしか残っていない。

ここで改めて、「設計」「設計する」の区別に基づいて話を進めたい。「設計」は名詞であり、フォームである。定型作業は一つのプロセスである。これを「設計からメタ性が失われると定型作業になる」へ字面通りに当てはめるなら、「設計」というフォームからメタ性が失われるとプロセスになる。すなわち、フォームがプロセスへ変化するということになる。しかし、このような変化は実際に可能なのだろうか。下表は、プロセスとフォームの特徴を並べたものである。

静的か動的か 個に関するか類に関するか
フォーム 静的 類に関する
プロセス 動的 個に関する

メタ性の喪失によって フォーム → プロセス という変化が生じるのだとすると、メタ性は動と静を、個と類を相互に変換する能力を持っている、ということにならねばならない。しかしこのような「メタ性」は、ここまで語ってきたメタ性とは異なっている。ここまでのメタ性は「個に対する類型・分類」としてのものであって、現象を変換する類のものではなかった。プロセスを分類・類型によってフォームに変化させるのではなく、あくまで、プロセスを類型化・分類化することでフォームを形成するものだった。フォームをプロセスへと変化せしめるような「メタ性」も存在するかもしれないが、それは少なくともここで扱っているものではない。

ここで二つの選択肢が考えられる。一つは、「設計からメタ性が失われると、定形作業になる」という時のメタ性は、ここまで議論してきたメタ性とは全く別種のものであるとして、新たな「メタ性」を検討する道。もう一つは、あくまでここまで扱ってきたメタ性と一致するものであるとして、元のテキストを再解釈する道。今回は、後者の方向で検討を継続してみる。

「メタ性」についての議論が整合するように元のテキストを再解釈するとして、どのような解釈になるか。元テキストの"設計"が、フォームとしての「設計」ではなく「設計する」という過程の方を、すなわち プロセスからフォームが形成される過程の方を指していると読み替えれば、成立するのではないだろうか。

「設計する」という過程は、プロセス類型化・分類化を通じてフォームというメタ(類型・分類)を形成する過程である。この過程からメタ性が、すなわち個に対する類という関係が抹消された時、何が起きるか。第一に、「設計する」という過程が個から類を作り出す過程、すなわち「個に対する類という関係」を構築するものである以上、「設計する」という過程自体が成立しなくなる。「設計する」という過程が喪失したならば、プロセスからフォームとしての「設計」を形成するルートも存在しなくなるのだから、「設計」もまた成立し得ない。結果残るのはプロセスだけ、ということになる。こうして残ったプロセスをいわゆる「定型作業(パターンが決まっている、変化が少ない作業)」とするなら、「設計(をすること)からメタ性が失われると、定型作業になる」が導出できるだろう3

以上より、「設計からメタ性が失われると定型作業となる」について、次のような現象であると説明できるだろう。 設計からメタ性すなわち「個に対する類」という関係性が失われた時、メタ(類型・分類)としての設計自体および設計を形成する過程も消失する。そのため、メタ性の喪失の後に残るのはプロセス ≒ 定型作業のみである。

まとめ

  • 設計のメタ性は、ユースケース、業務フロー、ストーリーといった各種プロセスに対するメタとして現れる。
  • ここで言うメタ性は、個別プロセスに対する類型・分類として発揮される
  • 「設計する」という過程からメタ性(類型・分類)が喪失した時、「設計する」「設計」双方が失われ、後には個別のプロセス(定型作業)のみが残る

参考資料


  1. G.ベイトソン『精神と自然』p.356-361

  2. このように考えるなら、ユースケース、ストーリー、業務フローは設計の制約や前提条件を与えるのみならず、「設計する」という行為や「設計」というフォームの成立条件としても機能することになる。すると、ユースケース、ストーリー、業務フローといったプロセスが定義されていない場合に設計が上手くいかないのは、「制約や前提条件が少なく、自由過ぎるから上手く行かない」というだけでなく、そもそもの成立条件が欠落しているが故である、とまで言えるだろうか。すなわち、プロセス定義の不備による影響は「設計が難しくなる」という程度に留まらず、「設計する」という行為も「設計」というフォームもそもそも成立不可能な事態である、とまで主張することはできるだろうか。

  3. ただし、こうして残ったプロセスが「定型」である保証は、少なくともこの議論においては登場しなかったし、保証を組み込めるようにも今の所思えない。実際のところ、「設計からメタ性が失われる」ことによって現れてくるのは、未分類な個別のプロセス・手続き群というところが精々という気もする。それらが定型か非定型かは定かではなく、かつ類型も分類もされていないどこまでも"個別"なものとして発生してくる。

メモ - 「わかりやすい」「わかりにくい」考3(WIP)

前提

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「Xはわかりやすい」について

  • 「Xはわかりやすい」とは、前提として「Xがわかる」「Xがわからない」という事態がそれぞれ観念された上で、「Xがわかる」という状態から「Xがわからない」という状態への遷移について、「その遷移は容易にあるいは速やかに行われた」という認識を抱いた時に成立可能となる認識である。
    • したがって、「Xはわかりやすい」とは、自身の内的認識が変化した仕方についての認識であり、また、そのような認識を私は抱いているという言明である。
  • 「Xはわかりにくい」とは、前提として「Xがわかる」「Xがわからない」という事態がそれぞれ観念された上で、「Xがわかる」という状態から「Xがわからない」という状態への遷移について、「その遷移は容易にも速やかにも行われなかった」という認識を抱いた時に成立可能となる認識である。
    • したがって、「Xはわかりにくい」とは、自身の内的認識が変化した仕方についての認識であり、また、そのような認識を私は抱いているという言明である。
  • 「Xはわかりやすい」「Xはわかりにくい」は、いずれも、自身の内的認識の状態変化についての認識であるから、原理的に内的認識についての言明以外にはなりえない。したがって、「Xはわかりやすい」「Xはわかりにくい」という言明は、形式的にはXの性質や特徴について語っているかのように見えながらも、実態としてはXについて何一つ語っていないし、語り得ない。

状態遷移について

  • 「Xがわかる」「Xがわからない」を行き来する状態遷移は、「問い」の発生・変形・解消によって生じる。
  • 「問い」には、不定形の「問い」と、部分定形の「問い」と、定形の「問い」がある
  • 問いが多く発生すればするほど「Xがわからない」に近づき、「Xはわかりにくい」という認識が成立しやすくなる
  • 問いが不定形に近づくほど「Xがわからない」に近づき、「Xはわかりにくい」という認識が成立しやすくなる
  • 問いが解消すればするほど「Xがわかる」に近づき、「Xはわかりやすい」という認識が成立しやすくなる
  • 問いが定形に近づくほど「Xがわかる」に近づき、「Xはわかりやすい」という認識が成立しやすくなる

「わかりやすくする」とは何か

「Xはわかりやすい」「Xはわかりにくい」は、内的な状態遷移のプロセスに対する認識であり、その成立可能性はプロセスにおける「問い」の発生・変形・解消によって左右される。「問い」がより少ないほど、発生した「問い」が定形に近いほど、「問い」の解消が迅速に行われるほど、「わかりやすい」という認識の成立可能性は高まる。 このことを踏まえた時、「XをAにとってわかりやすくする」とはどういう行為であると説明できるだろうか。

「XをAにとってわかりやすくする」という時、それは、AがXに対してどのような/どのように「問い」を抱くかをコントロールしようとしていることに他ならない。 「XをAにとってわかりやすくする」ということ、すなわちAがXに対して「わかりやすい」という認識を成立させる可能性を高めるということは、Aがまさに上記のような認識状態の遷移プロセスを通過するよう誘導しようという試みである。

  1. Xを認識したAが、Xについて「問い」を抱かないようにさせる(「問い」の抑制)
  2. Xを認識したAが、Xについてより定形に近い「問い」を抱くようにする(「問い」の定型化)
  3. Xを認識したAが、Xについて抱いた「問い」を速やかに解消できるようにする(「問い」の簡略化?)

世の「わかりやすくする技術」といったものは、これら 1.〜3. のいずれかあるいは複数を達成しようとした先で編み出されたものとして、位置付けられないか。

具体例

いくつか「わかりやすくする技術」として提示されているものを取り上げて、それらが実際に上記1.〜3.のような効果をもたらすかどうか、検討してみる。

「話にはリードをつける」

最初の題材は、池上彰の『わかりやすく<伝える>技術』を用いる。本書は、元NHKニュースキャスターの著者が自身の経験を元に、"わかりやすい説明の方法、あるいはプレゼンテーションで留意すべきことなど、「わかりやすく<伝える>技術」の基本"を伝えることを目的としている 1

私は、わかりやすい説明とは、相手に「地図」を渡すようなものだと考えています。説明のための「地図」。それを放送業界では「リード」と呼んでいます。 (中略)

あらかじめ「いまからこういう話をしますよ」と聞き手にリードを伝えることを、私は"話の「地図」を渡す"と呼んでいます。「きょうはここから出発して、ここまで行く」という地図を渡し、「そのルートをいまから説明します」という形をとることで、わかりやすい説明になります。 (中略)

たとえば、発表をするとき、「これから◯◯分間、何々についてお話します。私が言いたいのはこういうことです」と言ってから、「そもそも……」と続けてはどうでしょう。 聞き手はみな「結論はそこに行くんだな」と目的地がわかりますから、途中のルートについても一生懸命聞く気になります。それがないまま話が始まってしまうと、迷路に連れ込まれるような気がします。 2

これから何を話すのか、結論は何かを事前に提示して、それから詳細を語る。それによって聞き手は"わかりやすい説明になる"と、池上は言う。

この方法は、先の1.〜3.を用いて、どのように整理できるか(WIP)

参考書籍


  1. 池上彰(2009)『わかりやすく<伝える>技術』講談社現代新書 p.8

  2. 同書 p.18-19

メモ - 「全ての認識は経験から始まるが、必ずしも全ての認識は経験から生じない」について

出典

しかし我々の認識がすべて経験を もって 始まるにしても、そうだからといって我々の認識が必ずしもすべて経験 から 生じるのではない。 (...) 即ち―我々の経験的認識ですら、我々が感覚的印象によって受け取るところのもの[直観において与えられたもの]に、我々自身の認識能力[悟性]が(感覚的印象は単に誘引をなすに過ぎない)自分自身のうちから取り出したところのもの[悟性概念]が付け加わってできた合成物だということである。

p.57 イマヌエル・カント(1961)『純粋理性批判』篠田英雄 訳, 岩波文庫

疑問

認識はすべて「経験を もって 始まる」が、一方で全ての認識が必ずしも「経験 から 生じる」とは限らないという。 「経験を もって 始まる」ことと、「経験を もって 始まる」とは、どのように異なるのか。 このことから、「経験的認識ですら、 (...) 自分自身のうちから取り出したところのものが付け加わってできた合成物だということ」が言えるようだが、この話はどのようにつながってくるのか。

あるNFT解説動画と、それに対するリアクションから

NFTについて、「何か言っていそうで何も言っていない」ような動画に対して「わかりやすい」というリアクションが多く付く、という現象が過去に有った。

「NFTは近々暴落する、でも大丈夫、そう信じてる」ぐらいしか元の動画は語っていない、つまりNFTの現状や将来予測、その原因などについて何一つ語っていないのだが、それでも「わかりやすい」といったリアクションが散見される。 いわば、「NFTについて解説する動画」はここに確かに有るが、「NFTについての解説」は存在していない、あるいはほとんど無い。

この時、彼/彼女らが抱いた「わかりやすい」「わかった」という認識は、どのようにして始まり、どのように発生したのか? 「NFRTについて解説する動画」は有っても「NFTについての解説」は(ほとんど)存在しないにも関わらず、彼/彼女らはなぜ「(NFTについて)わかった、わかりやすい」という認識を抱くことができたのか。

冒頭のカントのテキストに擬えるなら、彼/彼女らの「(NFTについて)わかった、わかりやすい」という認識は、「NFTについて解説する動画」という経験から始まっている(その動画を見たことを契機としている)が、しかしその認識は、「NFTについて解説する動画」を見る経験を通じて得られる「NFTについての(?)解説」からではなく、むしろそれ以外から生じている(構築されている、生成されている、発生している?)という説明になるか。

動画を見た時に彼/彼女らが抱いた「(NFTについて)わかった、わかりやすい」という認識は、その動画を見るという経験を通じて始まっていることは明確であると言って良いだろう。一方で、同時に、この経験を材料として認識が生じているのだと考えると、実際には、その動画にはNFTについて実際にはほとんど何も解説などしていないのだから、「(NFTについて)わかった、わかりやすい」という認識を構成するものが不明となってしまう。 実際には、恐らく、その動画を見るという経験を通じて彼/彼女らが事前に持っているNFTについての知識・イメージを想起し、その想起(あるいは、想起したという現象自体)を材料に「(NFTについて)わかった、わかりやすい」という認識が生じているのではないか。あるいは、ともすると、NFTは実際には関係なく、「動画の言葉を理解できた」という事態のみを材料として、NFTについての情報は殆ど増えていないにも関わらず、何か自分の中の脳内にイメージを構築して「(NFTについて)わかった、わかりやすい」という認識を抱くに至っているのかもしれない。

いずれにせよ、「(NFTについて)わかった、わかりやすい」という認識が生じる時、必ずしも動画の情報(「動画を見る」という経験が直接与える情報や経験)のみならず、自身の脳内やイメージ、はては思い込みや早とちりをも材料としている場合がありうる。結果、ともすると、(動画を見るという)経験が、外的刺激以外のほとんど何も与えなくとも、「(NFTについて)わかった、わかりやすい」という認識を抱くような事態すら考えることができる(また実際、そのような事態が生じているとも推測できそうではある)。

テキストや動画といったある対象についての何かしらな経験を経て「Xがわかった」「Xがわかりやすい」という認識を抱く時、対象のXに関する内容に依らず、ともすると対象がXについてほとんど何も語っていないものだとしても、人は「Xがわかった」「Xがわかりやすい」という認識を、もっぱら自身の内的な認識や知識や記憶に基づいて抱くことができる。そのような認識は、「テキストを読む」「動画を見る」といった経験 をもって 始まっている(〜を契機としている)ことは間違いないだろうが、一方で、必ずしもそうした経験 から 生じている(〜によって構成されている)とは限らない。


上記のような考察を踏まえると、以下の一文は以前よりもよく腹落ちするように感じられた。

即ち―我々の経験的認識ですら、我々が感覚的印象によって受け取るところのもの[直観において与えられたもの]に、我々自身の認識能力[悟性]が(感覚的印象は単に誘引をなすに過ぎない)自分自身のうちから取り出したところのもの[悟性概念]が付け加わってできた合成物だということである。

「感覚的印象によって受け取るところのもの = 動画を見たりテキストを読むことで得られる経験」であり、それを受けての「わかった」「わかりやすい」「わからない」「わかりにくい」という認識は、そうした経験から得られたものと「我々自身の認識能力が自分自身のうちから取り出したところのもの = 自身が以前から持っている知識や記憶やイメージ」を混成したものである。 すなわち、「動画を見たりテキストを読むという経験」を受けて(それを もって 、それを契機として)「わかった」「わかりやすい」「わからない」「わかりにくい」という認識を抱きうるが、現に抱かれた認識それ自体は、必ずしもその経験のみ から 生じた(〜によって構成された)ものではなく、「自分自身のうちから取り出したところのもの」と混ぜ合わせて(ともすると、「自分自身のうちから取り出したところのもの」のみによって)構成されたものであり得る。

メモ - 「わかりやすい」「わかりにくい」考2

前回

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「わかりやすい」「わかりにくい」の成立条件

任意の対象Xについて私達が「わかりやすい」と認識したとき、その背後には何が存在するか。より正確には、その背後には何が存在したならば、「わかりやすい」という認識は成立可能となるか。同様のことを、「わかりにくい」についても考える必要がある。

「Xはわかりやすい」「Xはわかりにくい」というとき、「私はXがわかった」という、そのような認識状態に私が到達したという事態が、その認識において必然的に観念される。というのも、「わかりやすい」「わかりにくい」という認識は「わかった」という状態へ到達するまでの主観的、体感的な難易度に対する表明であるからだ。「私はXがわかった」という事態を想起し、そのような事態に到達できたかどうか、到達できたとしてその過程はスムーズであったかどうか、それら結果および過程についてどのような認識を抱いたかに応じて、私達は「わかりやすい」「わかりにくい」という認識のいずれかを抱き得る。

「私はXがわかった」という認識状態へと到達したという認識が成立し、かつ、その到達までの過程は容易であったという認識までもが成立したのなら、私達は「Xはわかりやすい」という認識を抱き得る。対して、「私はXがわかった」という認識状態へ到達したという認識は成立したものの、その過程は甚だしく困難であったという認識が同時に成立したとき、私達は「Xはわかりにくい」という認識を抱きうる。また、そもそも「私はXがわかった」という認識自体が成立しなかった場合にも、「Xはわかりにくい」という認識を抱きうる。

ところで、「わかりやすい」「わかりにくい」という認識の背後に「Xがわかった」という認識状態への遷移があるとするなら、「Xがわかった」という認識状態の手前、すなわち「Xがわかった」という認識状態へ遷移が発生する前に私達が抱く認識状態が存在しなくてはならないが、その状態に対応するのが「Xがわからない」という認識である。

「Xはわかりやすい」「Xはわかりにくい」という認識は、その前提として「Xがわかった」「Xがわからない」という2つの認識状態の想起を必要とする。初期状態は「Xがわからない」であるが、そこから「Xがわかった」という認識状態へと容易に遷移できたと認識したとき、「Xはわかりやすい」という認識の成立条件が満たされ、「Xはわかりやすい」という認識を抱きうる。他方、その状態遷移が困難であった、あるいはその状態遷移が成功しなかったとき、「Xはわかりにくい」という認識の成立条件が満たされ、「Xはわかりにくい」という認識を抱きうる。

すなわち、「Xはわかりやすい」「Xはわかりにくい」とは、「Xがわかった」「Xがわからない」という2つの認識状態を行き来する状態遷移に対する認識である。

「わかりやすい」「わかりにくい」の構造

「わかりやすい」「わかりにくい」という認識の対象

「わかりやすい」「わかりにくい」の観測対象が自らの認識状態の遷移に対する認識であるならば、「Xはわかりにくい」「Xはわかりやすい」という認識がその認識対象として取るのは、Xではなく、もっぱら自身の認識そのものであると言えるだろう。すなわち、「Xはわかりやすい」「Xはわかりにくい」という認識は、その文面とは裏腹に、Xそのものについてはなんら言及していないのである。

そのように考えるなら、「Xはわかりやすい」「Xはわかりにくい」という認識はもっぱら主観に依存するものなのか、はたまたXの性質に由来するものなのかという問には結論が出せる。「わかりやすい」「わかりにくい」いずれも、Xを認識する主体の内面に対する認識であるのだから、その構成材料は全て主観であり、「わかりやすい」「わかりにくい」は全く主観にのみ依存し、Xについては実態として何一つ語らない認識である。

「Xはわかりやすい」「Xはわかりにくい」という言及は、一見するとXについての言及のようでありながら、実際はXについて言及していない。 これらの言葉が実際に言及しているものは、「理解していない」という認識から「理解した」という認識へ遷移した、という認識の体験的難易度である。 このことは、言語表現ではなく「わかりやすい」という認識それ自体の構造・性質に由来するものであるから、それはもはやXへの言及たり得ない。

「わかりやすい」「わかりにくい」の状態遷移は何によって発生するか

「Xがわからない」とき、私達はいわゆる「問い」をいくつか抱いた状態にある。その疑問は、いくつかの形態を取るが、大別して「定形の問い」「部分定形の問い」「不定形の問い」の二種類に分けられる。

「問い」は一般に「XはYであるか」という形式にまとめられるが、このXとYの両方が明確に形式化されたものを「定形の問」と呼ぶことにする。他方、XとYの少なくとも一方が不明瞭で言語化できていない状態の、すなわち定形になっていない状態の問を「不定形の問」と呼ぶことにする。 例えば、「デカルトの方法的懐疑とは、確実なものを見つけるために少しでも疑う余地のあるものは全て不確かなものとみなす方法ということなのだろうか」という問は、「X = デカルトの方法的懐疑」「Y = 確実なものを見つけるために少しでも疑う余地のあるものは全て不確かなものとみなす方法」という形で定形化されている、「定形の問」である。 他方、「デカルトの方法的懐疑とはなんなのか」は、Xは定型化されたものの、Yが不定形であるような「不定形の問」であり、「少しでも疑う余地があるものは全て疑うという方法は、一体誰がどのように提唱したものなのか」とは、X/Yの一方のみが定形であるような「部分定形の問い」である1

不定形な問とはなにか。それは、私達がしばしば抱く「しっくりこない」「上手くいえないが、なにかもやもやする」というような、そしてその違和感故に「わかった」という認識を抱くことができずにいるような、そうした問である。そもそも問う内容もわからず、問うべき対象もわからない、「XはYであるのだろうか」のXもYも明確に言及できない、「わからない」部分が確実に存在するもののそれがどこの何なのかが明確にできない、そのような問が、XもYも不定であるような「不定形の問い」である。

Xについて認識したとき、私達はしばしばこれら「定形の問」と「不定形の問」をいくつかその内心において抱くことがある。これら問いが数多く内心に浮かべば浮かぶほど私達は「わかった」という認識状態から離れ「わからない」という認識状態へ近づき、それらが解消されれば解消されるほど「わかった」という認識状態へ近づいていく。これらの問いがそもそも少数しか発生しないのであれば、私達はより「わかった」という認識状態に近い状態からXについての分析を始めることができる。 これらの問いが発生するのは内心においてであり、Xに対してどれだけの、どのような内容の問いが浮かぶかは一様ではない。故に、同じ対象を見たとしても、より多くの問いが浮かんだ人間は「わからない」という認識状態に近づき、浮かんだ問いが少ない人間は「わかった」という認識状態へ近づいていく。

注意しておくべきは、こうした問いの発生と解消を通じて遷移する「わかった」と「わからない」は客観的なものではなく、あくまでそれらの問いを抱いた当人の認識においてである。多くの問いが浮かんだからといってXについてより少ない知識と浅い理解しか持っていないとは限らないし、浮かんだ問いが少ないからといってXについてより多くの知識と深い理解を持っているとも限らない。むしろ、Xについて理解が浅いが故に潜在的な問題に気づくことができず、それゆえに少ない問いしか抱かずに済む、という場合もありうるし、逆に、Xについて理解が深い故に様々な問題や関連事項が浮かび、それらが多数の問いを生み出すという場合も有る。 ref. ボビン論文 「わかりやすい」「わかりにくい」は、どこまでいっても自身の主観のみに依って構成されている認識であることに留意。

ところで、こうして内心に抱いた問いが「わかった」「わからない」間の状態遷移に与える影響の程度は一様ではない。問いが不定形に近ければ近いほど、「わからない」へと認識状態を引きつける力が強くなる。不定形な問いが最も「わからない」へ引きつける力が強く、逆に定形の問いはもっとも力が弱い。部分定形の問いはその中間にある。

実際、「定形の問い」として浮かぶものは一つも無いにも関わらず、どうにも言葉にできない「不定形の問い」が心の中を漂うが故に、全く「わかった」という認識を抱くことができずにいることがある。定形の問いや部分定形の問いが解決したとしても、不定形の問いが一つあれば、それだけで私達は「わからない」という認識状態へ強く引っ張られてしまう。 逆に、不定形の問いを抱かずに済み、定形の問いしかその内心に無い場合、その定形の問いさえ解決すれば、私達の認識は「わかった」へと到達する。「なるほど、そういうことか」という納得から、私達の自己認識は「わかった」へと到達し、「疑問が解消された」状態となる。 部分定形の問いは、不定となっているXないしYについて回答が与えられればそれで一気に解決へ到達することもあるが、定形の問いへと変化して引き続き「わからない」への影響力を残すこともある。この意味で、部分定形の問いは不定形の問いと定形の問いの中間程度の影響力を持つと言って良いだろう。

状態遷移の容易さあるいは困難さについて

不定形の問い、部分定形の問い、定形の問いといった各種の問いがその内心に抱かれたとき、私達は「わからない」という認識状態へと傾いていく。しかし、それらが解消されたり、不定形や部分定形の問いが定形の問いに近づいていけばいくほど、問いの影響力は薄れ、「わかった」という認識状態へと近づいていく。

このことから、状態遷移を「容易である」と認識するか「困難である」と認識するか、すなわち「わかりやすい」という認識が成立するか「わかりにくい」という認識が成立するかを分ける要素として、これらの問いがどのように解消ないし定型化されるかが関わると考えられる。

多くの問いが速やかに解消されていけば私達の認識はよりスムーズに素早く「わかった」へ近づいていくし、不定形の問いが速やかに定型化されていった場合も同様である。これによって認識状態が速やかに「わかった」へと遷移していけば、私達はその認識において「わかった」という状態へと遷移することが容易であったと認識することが可能となり、現にその状態遷移が容易であったと認識されれば、私達は「わかりやすい」という認識の成立条件を充足する。 逆に、問いがなかなか解消されず、かつ、不定形の問いを定型化していくことも覚束なければ、私達の認識はそれら問いが持つ引力によって「わからない」という認識状態により長くとどまることとなる。この事態が解消されるまで時間がかかれば、私達は「わかった」という認識状態への遷移が困難であったと認識し得るし、そもそもその事態が解消できなければ「わからなかった」「わからない」という認識状態にあるため、今度は「わかりにくい」という認識の成立条件が成立することとなる。

まとめ

「わかりやすい」「わかりにくい」は「わかった」「わからない」という認識状態の遷移に対する認識である。その状態遷移が容易だったという認識が「わかりやすい」であり、逆に困難だったという認識、あるいはそもそも状態遷移ができなかったという認識が「わかりにくい」である。 そうした状態遷移は、いくつかの「問い(不定形の問い、部分定形の問い、定形の問い)」が発生する・解消する・定型化する・不定形化することによって生じる。問いがより多く発生し、より不定形に近づくほどに私達は「わからない」という認識状態へと近づいていく。逆に、問いがより多く解消し、より定形に近づくほどに私達は「わかった」という認識状態へと近づいていく。 また、問いの解消や定型化が速やかに行われるほどに、その状態遷移は容易であったと認識されやすくなっていく。すなわち「わかりやすい」という認識が成立する可能性が上昇していく。 逆に、問いの解消や定型化が遅延するほどに、その状態遷移は困難であったと認識されやすくなっていく。すなわち「わかりにくい」という認識が成立する可能性が上昇していく。

philomagi.hatenadiary.jp


  1. この問を「X = 少しでも疑う余地があるものは全て疑うという方法」であり、Y が不定形であると見なしても構わない。 部分定形の問いについて、何をXとして何をYとするかはそれほど重要ではない。