雑記帳または /dev/null

ソフトウェア開発、哲学、プログラミング、その他雑多なものもののメモ

メモ - 「役に立たなさ」について

「役に立たなさ」は専ら否定的な意味で、精々が「役に立たなくても良い」という消極的な意味で用いられるが、むしろ積極的な意味として、「役に立たないからこそ良い」というかたちで、「役に立たなさ」を語ることはできないか。

「Xが役に立つ」とは、専ら、Xが何らかの具体的な利益をもたらすこと、時にはその利益に即時性があったり、あるいはその利益が大きいものであることを含意することもある。 他方、「役に立たない」は、「役に立つ」ことの否定であるとするならば、「Xは役に立たない」とは、Xが何らか具体的な利益をもたらさないこと、時にはその利益が得られるまでに時間がかかることや、得られる利益がごく小さなものに留まるものとして考えられる。

こうした意味の「役に立たなさ」を、積極的に、肯定的に評価する余地はあるだろうか。

具体的な利益をもたらさないことについて

具体的な利益と直ちに結びつけることができるという意味で「役に立つ」ことを、ここで仮に「有益性」と呼ぶこととする。 この意味で「有益的」なものは、例えば「これによってしかじかという利益が手に入る」という形で、しかじかという利益を獲得するための手段として語ることになる。

ところで、「具体的な利益をもたらす」ということの否定形は「具体的な利益をもたらさない」だが、この「もたらさない」かたちには、二つのあり方があるように思われる。

一つは、一切なんらの利益をもたらさないこと、一切なんらの利益と結びつかないこと。これを「無益性」とする。 もうひとつは、なにか具体的な利益と事前に結びつかないこと。利益と結びつけることも、逆に切断することもできること。何かしらの利益をもたらすかどうかと全く独立していて、それ故に切り離すことも接続することもできるようなこと。これを「非益性」とする。

「非益性」は、利益ではないというだけであって利益が存在できないのではなく、利益と接続することもある。しかしながら、任意の利益から切断することもできるから、利益ではない。 「利益を生まない」のでも「利益を生む」のでもない、単に、「利益でない」という意味での「非益性」。

「非益的」なものの「役に立たなさ」について

「非益的」なものは、「有益的」なものではないが故に、何らか具体的な利益とは結びつかない。なんらか具体的な利益を獲得するための手段として明晰な形では語り得ない。 しかしそれは、一切の利益と結びつきえないことを意味しない。単に、事前にその結びつきが定められていない、なんらかの利益との結びつきを自明であるかのように扱えないに過ぎない。 一方で、逆に、「これはしかじかの役に立つ」ということから切断してしまうこともできる。「これはしかじかの役に立つ」と語られていたとしても、それを全く無視して、「しかじかの役に立つ」ことがあたかも存在しないかのように語ることも可能である。すなわち、「しかじかの役に立つ」ということを前提とする必然性から解放されている。

このような意味で、「非益的」な対象は、「しかじかの利益をもたらす」という前提から全く解放されている。 例えば学問などは、こうした「非益的」な意味での「役に立たなさ」によってこそ、その価値を発揮できる側面を持ってはいないか。

選択と集中」というスローガン(ないし、有る種のイデオロギー)によって、特定の具体的利益を生み出すような、その意味で「有益的」な領域が注目される傾向にある。ともすると、そのように特定の具体的利益を生み出すことこそが「良い」ことであるかのように語られる節もある(その意味で、「選択と集中」は有る種のイデオロギーでもあるのではないか)。 しかし、学問は本来必ずしもなんらかの利益を約束するものではなく、むしろなんらかの利益に結びつくかどうかなど全く不明で、しかしその結果を事後的になんらかの利益に接続できる可能性がある、すなわちその「非益的」な性質こそが中心的なものではなかったか。 また、学問のある一領域・一分野に対してなんらかの具体的利益が強く結び付けられたとしても、すなわち「有益的」であるとしても、必ずしもそうした「しかじかの役に立つ」ことを前提とする必要がない、すなわちその利益から切断して、それ自体として独立に引き続き吟味・深化させることもできるものではなかったか。

このような意味での、すなわち「非益的」な意味での「役に立たなさ」は、積極的にそれを評価し肯定する余地があるように思われる。 そのような意味での「役に立たなさ」は、特定の利益や関心を前提とすることなく、あくまでそれ自体において発展しながら、それでいて事後的になんらかの利益を接続する余地を残し、しかもそうして見いだされた利益から再び自身を切断することもできるからだ。むしろ、こうした「役に立たなさ」を取り除いて「役に立つ」ものにしようとすると、すなわち特定の利益を直ちに導く「有益的」なものにしようとすると、こうした自由さと深遠さと柔軟さは失われ、あくまでただ特定の利益を算出するための装置と化してしまう。

装置の組み合わせで成立させられる程度にこの世界が単純であれば、あるいはその程度にこの世界が解明されているならば、それも一つの方針やもしれない。しかし現状は、それこそ私達「人間」のような存在を始めとして、そのような程度に単純とも解明済みとも思えない。 複雑な世界の中で停滞や袋小路を回避する、あるいはそこから脱出するためには、こうした「役に立たなさ」、すなわち「非益的」なものこそが重要となるやもしれない。しかしそれらは「非益的」であるがゆえ、「停滞や袋小路から脱出する」という利益すらからも自らを切断して、ただ自らの要請によって己を深化させることができる。

徹底して浮遊する、一貫して不確定がゆえの価値として、「非益的」な「役に立たなさ」は、積極的な肯定を受ける余地があり、かつそうするだけの価値があると考えられるのではないか。

「無益的」なものの「役に立たなさ」について

「無益的」なもの、すなわちあらゆる利益と事前にも事後にも結びつかない、一切の利益を提示しないようなものについて。 そうした「無益的」な「役に立たなさ」は、肯定する余地があるだろうか。

そもそもとして、そうした「無益的」なものというのは存在可能だろうか。 事前にも事後にも、一切の利益との接続を許さないとするなら、それはもはやそれ自体として必然的に「無益的」であり、厳密な意味で普遍的に「無益的」であるようなもの、すなわちカント的用法において「無益的」だとア・プリオリ認識されるようなものではないか。

参考

「非〇〇的」という用法に関して、「非意味的切断」など。

利益を即時にもたらさないことについて

WIP

即益性-漸益性

もたらす利益が小さいことについて

WIP

寡益性-多益性