雑記帳または /dev/null

ソフトウェア開発、哲学、プログラミング、その他雑多なものもののメモ

知の不確定性を拒否する振る舞いについて、考察と雑感

背景

下記スレッドでやり取りした内容の再整理あるいは追記

概要

ある事柄をどのように評価するかについて、「課題解決志向」と「課題解決主義」という2つの類型を考える。 この2類型を隔てるものは、「具体的利益に直結しないもの」について価値を認めるかどうかにあると整理できないだろうか。

「意味でない切断」すなわち非意味的切断の概念をヒントに「利益的」「非利益的」という区別を考える場合、「課題解決志向」「課題解決主義」はさらに一般化して記述できないか。 その場合、前者は「非利益的なものより利益的なものを優先する態度」として、後者は「利益的なものに価値を認め、非利益的なものには認めないか矮小化する態度」として、それぞれまとめられそうに思う。 さらにまとめるなら、「利益志向」と「利益主義」という形で整理できるかもしれない。

「利益主義」は、そもそもとして知が持つ不確定性・非自明性を排除して、知の持つ「意義」「価値」を確定・自明にしようとする態度として評価できるだろうか。 その結果として「利益主義」は、「Aは〜に役立ち、...という利益をもたらす」というものを重用する一方で、どういった具体的利益をもたらすかが不確定で非自明なものを「薀蓄」「雑学」としてその価値を認めないか矮小化する。

このような整理を採用するなら、「数学など役に立たない」「文学なんて役に立たない」「歴史なんて役に立たない」といった態度、またそれらを「趣味人の遊び」「単なる薀蓄」として粗雑にまとめる態度は総じて「利益主義」態度であると見なせるのではないか。こうした知の持つ不確定・非自明性を排除して「確定的で自明な世界」で安穏と過ごそうとする態度の行き着く先は、単純化され一元化された独善的な世界観・思想ではないだろうか。

「課題解決志向」と「課題解決主義」

「課題解決志向」と「課題解決主義」をここでは以下のように区別する。

  • 課題解決志向 = 具体的な課題解決に直結する、あるいは直結するとみなしたものとそうでないものとがあった場合、前者へ優先的に関心を向ける
  • 課題解決主義 = 具体的な課題解決に直結する、あるいは直結するとみなしたもののみに価値を認め、そうでないものの価値は認めないか矮小化する

「課題解決志向」は、読んで字のごとく「課題解決につながるものをより志向する」という態度である。課題解決に直結するもの、あるいは直結するとみなしたものに優先的に関心を向ける態度であり、また「優先的に関心を向ける」という程度にとどまる。課題解決に直結しないものについて、そのことを以て何らか評価・裁定を下すことは無い。単に、優先的には関心を向けないというだけである。

一方、「課題解決主義」は、課題解決につながるかどうかを以てその価値・意義を評価する。前者へ関心を向けるのみならず、課題解決につながる/つながるとみなしたことを以てそれを「有意義」「価値がある」とみなし、一方で課題解決に直結しないものについてはその価値を認めないか、著しく矮小化した評価を与える。「数学なんてただのパズルだ」「哲学なんてただの"言葉遊び1"だ」「歴史なんてただの薀蓄だ」といった態度は、ここでいう「課題解決主義」の典型である2。例えば「歴史なんてただの薀蓄だ」という態度について、歴史に関する知識・理解はそれ自体がなんらか具体的な利益には直結しない(ことが多い)が、その事を以て歴史の価値を「薀蓄」として矮小化している。

さらなる一般化:「利益志向」と「利益主義」

以前、非意味的切断という概念をヒントとして「(利)益的」「非(利)益的」という概念を考えた。 philomagi.hatenadiary.jp

「課題解決志向」と「課題解決主義」は、この「利益的」「非利益的」という概念の特に「利益的」という概念を使って、より一般化できるのではないか。

ここで言う「利益的」は、すなわち「具体的な利益と直結している(とみなされる)もの」を指す。「Aは課題Xを解決する」と言うことができる時、Aは「課題Xを解決するという利益をもたらす」という点で「利益的」なものである(とみなされる)。 「課題解決志向」「課題解決主義」はいずれも、「課題Xを解決するという利益をもたらす」という観点へ強く注意を向けるという点で、より一般には「利益的」なものにより注意を払う態度であると言える。このことから、「課題解決志向」と「課題解決主義」は、それぞれ「利益志向」と「利益主義」の具体例である、と再整理できるのではないか。

「利益志向」とは、様々な事柄の内で「なんらか具体的な利益をもたらす」とみなされたものへより強い関心を払う態度である。 「利益主義」とは、「なんらか具体的な利益をもたらす」とみなされたものにのみ価値・意義を認め、そうでないものについては認めないか矮小化する態度である。 「課題解決志向」「課題解決主義」は、「なんらかの具体的な利益」として「課題Xを解決する」という種類の「利益」を設定したものとして、すなわちそれぞれのいち具体例として位置づけられる。

「課題解決主義」「利益主義」が取りこぼすもの

そもそも、おおよそ知に類するものの利益は不確定かつ非自明である。むしろ、不確定かつ非自明であるからこそ、事後的に様々な意味・価値を与え、様々に応用することができる。事前に価値が定まらない、「何の役に立つかわからない」がゆえの = 「非利益的」であるがゆえの価値というものはがあるのではないか。 philomagi.hatenadiary.jp

そうした知の性質に対して、「課題解決主義」「利益主義」は具体的な利益(課題解決)に結びつくかどうか/結びつくと見なせるかどうかで、対象の価値を決定づけようとする。「(私は)具体的利益に通じるものを優先する」という「利益志向」とは異なり、「利益につながる/つながるとみなした物事にのみ価値がある」と確定させようとする。物事の価値は決定的・確定的・具体的であるからこそもたらされるのであって、「どんな利益をもたらすかわからない」というのはむしろ価値と反するものであるとみなす。

「利益主義」は、そのように振る舞う人間が「これは〜という具体的利益をもたらす」と理解できるもの、あるいは「これはとにかく具体的な利益をもたらすに違いない」と直感できるものについては、その対象の価値を認め、様々な応用や活用の可能性を認める。その一方でその条件を満たさないものは早い段階で「薀蓄」「雑学」呼ばわりして切って捨てる(しかも、しばしば「そうした切り捨ては正当なものである」という頑迷な信念すら伴う)ために、活用・応用する可能性も同時に廃棄される。

「利益主義」は、「観察者がすぐに理解できる程度のもの」「観察者が"役に立つに違いない"と信じ込んでいるもの」は拾い上げ得るものの、そうではないものをことごとく、それも積極的に取りこぼしていく。しかもその取りこぼしは、「価値がらるもの、有意義なものを選択しているのだ」という頑迷な信念のもと、積極的に行われてしまう。しかし「利益主義」において認められ得る「価値」「意義」は評価者の能力(理解力、想像力、etc...)に収まるものに限定されてしまうから、実態は独断と偏見による選別でしかない。

「利益主義」の行き着く先

「利益主義」は物事の価値・意義を単純化する。「利益に直結する(役に立つ)」か、「利益に直結しない(役に立たない)」かの単純な二元論で物事を評価する。前者には価値を認めながら、後者については認めないか矮小化する。前者をこそ「価値のあること」「有意義なこと」と定め、後者については「無駄なこと」「取るに足らない薀蓄」といったレッテルを貼り、それ自体に取り組む価値や意義を認めない。

しかも実際のところ、「利益主義」が定める利益に直結するかどうかという指標は、非常に狭く恣意的なものに過ぎない。「利益主義」の観点から「利益に直結する(役に立つ)」と判断されるかどうかは、ひとえにその判定者が具体的利益を想像・推測できるかどうかの一点にかかっている。判定者が利益を想像することができれば「利益に直結する」とみなされるし、想像できなければそうはみなされない。これはなんら一般的なものでも普遍的なものでもなく、独善的・独断的な評価以外にはなりえない。

それにも関わらず、「利益主義」的な言論は未だ健在である。「数学など役に立たない」「哲学など"言葉遊び"だ」「歴史など薀蓄だ」といった言論がそれである。これらは数学・哲学・歴史といった具体的利益、特に資本主義社会における利益にはなかなか直結せず、様々な考慮と応用を経てようやく、何らかの利益に結びつく可能性が生じる。しかも、「利益に結びつく可能性」が生じるところまでが精々で、実際になんらかの利益をもたらすかどうかは考慮・応用を省略してはわからない3「非利益的」なものである。そのことを以て、「利益主義」はそれらを「役に立たない」とみなす。考慮や応用といった不確定性・不確実性を以て価値を否定するか矮小化し、考慮の対象から一般に除外することを正当化しようとする。

そうして得られた「利益主義」的世界は、なるほど単純明快で、確実で、「わかりやすい」世界だろう。「役に立つ」ものだけを追求していれば良いのであって、そうでないものは物好きが趣味で漁るにまかせておけば良い。しかしそれは「利益主義」というフィルター内にのみ存在する仮想空間でしかない。一方で、その仮想空間で処理できない複雑で「わかりにくい」物事は、それがかつてどのような意義を持とうと、あるいは将来どのような意義があり得ようと、取り除かれていくか矮小化されて取り込まれる。複雑で不確定であるが故の意義や価値などは捨てられ、さらなる単純化が繰り返される。

「主義」ではなく「志向」へ

果たして現代の様々に発達した社会・技術・文化は、そのような単純化された世界でも成立しえただろうか。今後どのような役に立つかもわからないもの、詩・文学・音楽といった各種芸術であったり、「真理を明らかにしたい」という欲求に突き動かされて発展していった哲学・思想であったり、様々なしくみ・構造を厳密に数式・記号として組み上げようとする取り組みであったり、そうしたものが存在したからこそ現代の発展があったに違いないのではないか。それらを通じて文明社会はその幅を広げるとともに、「我々はどのような存在であるか」「我々は何を行っているか」といった認識を精緻にしてきたのではないか。

念の為明言しておくと、これは「非利益的」なものこそが最も重要なものである、という主張ではない。それは単に「利益主義」をひっくり返した「非利益主義」でしかなく、「利益主義」とは別のベクトルへ単純化した仮想空間に行き着くだけである。重要なのは、「利益的」なものか「非利益的」なものかの二者択一ではなく、両者の併存である。「非利益的」なものは社会の幅を広げただろうが、「利益的」なことがらがあったから社会はこれまで持続できたのだろう。そして「非利益的」なものと「利益的」なものは互いに独立・背反なものではなく、むしろ相互依存の関係にあるだろう。

「利益的」なものによって自らを持続し、「非利益的」なものによって認識を精緻かつ広範にする。そうして広く深くなった認識は、それまで「非利益的」でなかったものに対しても応用・活用する発想を可能にする、すなわち「非利益的」視点の発展によって「非利益的」なものが「利益的」なものに転換し得る。「利益的」なものは社会に直接かつ具体的な変化と影響を与え、その変化と影響は新たに「非利益的」な領域と視点をもたらす。この両者の循環した影響によって、社会は持続しつつ発展してきたのではないだろうか。

「利益的」なものに傾倒するにせよ「非利益的」なものに傾倒するにせよ、その傾倒の仕方が「主義」的であってはならない。それは世界を単純化し、世界に恣意的かつ独善的な限界を設ける。いずれの「主義」からも距離を取り、精々「利益志向」か「非利益志向」に留める。最も良いのは「利益志向」「非利益志向」からすらも距離を取ること、つまり「私は〜を主に扱う」という制限すらも取り払うことだろうが、そこまで徹底することが難しければ、次善策としての「志向」は悪くない選択だろう。

結論として取り立て目新しいことも無い、凡百なものである。だがしかし、「志向」を取るような口ぶりを取りつつ随所から「主義」的発想が漏れ出ているケースも多い。ここで繰り返し挙げた数学・哲学・歴史などは、特に「主義」的発想の被害を被っているように見える。凡百な結論ながら、確かに「主義」から距離を取れている人間は数えるほどもいないのではないかと思う。

参考書籍

武田砂鉄(2020)『わかりやすさの罪』朝日新聞出版

www.amazon.co.jp

全編を通じて「わかりやすい」「わかりやすさ」に対する警鐘を鳴らす。「わかりやすさ」を求めることによる世界の単純化、それに伴った複雑さを扱う能力を喪失することへの危惧など。

千葉雅也(2018)『思弁的実在論と現代について』青土社

https://www.amazon.co.jp/dp/4791770803

「非意味的切断」をヒントとして、「利益的」「非利益的」という分類を考察。

千葉雅也(2017)『勉強の哲学 来たるべきバカのために』文藝春秋

https://www.amazon.co.jp/dp/4163905367

「非意味的切断」をヒントとして、「利益的」「非利益的」という分類を考察。

読書猿(2021)『独学大全公式副読本――「鈍器本」の使い方がこの1冊で全部わかる』ダイヤモンド社

https://www.amazon.co.jp/dp/B09FDTY62B

学問が「役に立つ」かどうかについて


  1. ここで言う「言葉遊び」は、いわゆる俗語かつ蔑称としての「言葉遊び」である。詩や文学において、様々な表現方法をときに意図的に、時に偶然に任せて様々に用いるような、まさしく「言葉を使って遊ぶ」ような活動はここに含めないし、含むべきではない。本来なら「言葉遊び」という語をこのように使うのは避けたかったが、俗語ということもあり他にちょうどよい表記も浮かばなかったので、今回は脚注で補足することで妥協した。
  2. こうした態度は「課題解決志向」においてはどのような形を取るかといえば、そもそも存在しない。単に後回しにするというだけで「ただのパズル」「ただの"言葉遊び"」「ただの薀蓄」といった評価は行わない。強いて言えば「私は今の所興味がない」といった態度が精々である。
  3. このことは数学・哲学・歴史といった一部の学問に限った話ではない。既述の通り、およそ知に類するもの一般がそうである。