雑記帳または /dev/null

ソフトウェア開発、哲学、プログラミング、その他雑多なものもののメモ

メモ - 「全ての認識は経験から始まるが、必ずしも全ての認識は経験から生じない」について

出典

しかし我々の認識がすべて経験を もって 始まるにしても、そうだからといって我々の認識が必ずしもすべて経験 から 生じるのではない。 (...) 即ち―我々の経験的認識ですら、我々が感覚的印象によって受け取るところのもの[直観において与えられたもの]に、我々自身の認識能力[悟性]が(感覚的印象は単に誘引をなすに過ぎない)自分自身のうちから取り出したところのもの[悟性概念]が付け加わってできた合成物だということである。

p.57 イマヌエル・カント(1961)『純粋理性批判』篠田英雄 訳, 岩波文庫

疑問

認識はすべて「経験を もって 始まる」が、一方で全ての認識が必ずしも「経験 から 生じる」とは限らないという。 「経験を もって 始まる」ことと、「経験を もって 始まる」とは、どのように異なるのか。 このことから、「経験的認識ですら、 (...) 自分自身のうちから取り出したところのものが付け加わってできた合成物だということ」が言えるようだが、この話はどのようにつながってくるのか。

あるNFT解説動画と、それに対するリアクションから

NFTについて、「何か言っていそうで何も言っていない」ような動画に対して「わかりやすい」というリアクションが多く付く、という現象が過去に有った。

「NFTは近々暴落する、でも大丈夫、そう信じてる」ぐらいしか元の動画は語っていない、つまりNFTの現状や将来予測、その原因などについて何一つ語っていないのだが、それでも「わかりやすい」といったリアクションが散見される。 いわば、「NFTについて解説する動画」はここに確かに有るが、「NFTについての解説」は存在していない、あるいはほとんど無い。

この時、彼/彼女らが抱いた「わかりやすい」「わかった」という認識は、どのようにして始まり、どのように発生したのか? 「NFRTについて解説する動画」は有っても「NFTについての解説」は(ほとんど)存在しないにも関わらず、彼/彼女らはなぜ「(NFTについて)わかった、わかりやすい」という認識を抱くことができたのか。

冒頭のカントのテキストに擬えるなら、彼/彼女らの「(NFTについて)わかった、わかりやすい」という認識は、「NFTについて解説する動画」という経験から始まっている(その動画を見たことを契機としている)が、しかしその認識は、「NFTについて解説する動画」を見る経験を通じて得られる「NFTについての(?)解説」からではなく、むしろそれ以外から生じている(構築されている、生成されている、発生している?)という説明になるか。

動画を見た時に彼/彼女らが抱いた「(NFTについて)わかった、わかりやすい」という認識は、その動画を見るという経験を通じて始まっていることは明確であると言って良いだろう。一方で、同時に、この経験を材料として認識が生じているのだと考えると、実際には、その動画にはNFTについて実際にはほとんど何も解説などしていないのだから、「(NFTについて)わかった、わかりやすい」という認識を構成するものが不明となってしまう。 実際には、恐らく、その動画を見るという経験を通じて彼/彼女らが事前に持っているNFTについての知識・イメージを想起し、その想起(あるいは、想起したという現象自体)を材料に「(NFTについて)わかった、わかりやすい」という認識が生じているのではないか。あるいは、ともすると、NFTは実際には関係なく、「動画の言葉を理解できた」という事態のみを材料として、NFTについての情報は殆ど増えていないにも関わらず、何か自分の中の脳内にイメージを構築して「(NFTについて)わかった、わかりやすい」という認識を抱くに至っているのかもしれない。

いずれにせよ、「(NFTについて)わかった、わかりやすい」という認識が生じる時、必ずしも動画の情報(「動画を見る」という経験が直接与える情報や経験)のみならず、自身の脳内やイメージ、はては思い込みや早とちりをも材料としている場合がありうる。結果、ともすると、(動画を見るという)経験が、外的刺激以外のほとんど何も与えなくとも、「(NFTについて)わかった、わかりやすい」という認識を抱くような事態すら考えることができる(また実際、そのような事態が生じているとも推測できそうではある)。

テキストや動画といったある対象についての何かしらな経験を経て「Xがわかった」「Xがわかりやすい」という認識を抱く時、対象のXに関する内容に依らず、ともすると対象がXについてほとんど何も語っていないものだとしても、人は「Xがわかった」「Xがわかりやすい」という認識を、もっぱら自身の内的な認識や知識や記憶に基づいて抱くことができる。そのような認識は、「テキストを読む」「動画を見る」といった経験 をもって 始まっている(〜を契機としている)ことは間違いないだろうが、一方で、必ずしもそうした経験 から 生じている(〜によって構成されている)とは限らない。


上記のような考察を踏まえると、以下の一文は以前よりもよく腹落ちするように感じられた。

即ち―我々の経験的認識ですら、我々が感覚的印象によって受け取るところのもの[直観において与えられたもの]に、我々自身の認識能力[悟性]が(感覚的印象は単に誘引をなすに過ぎない)自分自身のうちから取り出したところのもの[悟性概念]が付け加わってできた合成物だということである。

「感覚的印象によって受け取るところのもの = 動画を見たりテキストを読むことで得られる経験」であり、それを受けての「わかった」「わかりやすい」「わからない」「わかりにくい」という認識は、そうした経験から得られたものと「我々自身の認識能力が自分自身のうちから取り出したところのもの = 自身が以前から持っている知識や記憶やイメージ」を混成したものである。 すなわち、「動画を見たりテキストを読むという経験」を受けて(それを もって 、それを契機として)「わかった」「わかりやすい」「わからない」「わかりにくい」という認識を抱きうるが、現に抱かれた認識それ自体は、必ずしもその経験のみ から 生じた(〜によって構成された)ものではなく、「自分自身のうちから取り出したところのもの」と混ぜ合わせて(ともすると、「自分自身のうちから取り出したところのもの」のみによって)構成されたものであり得る。