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メモ - 「わかりやすい」「わかりにくい」考2

前回

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「わかりやすい」「わかりにくい」の成立条件

任意の対象Xについて私達が「わかりやすい」と認識したとき、その背後には何が存在するか。より正確には、その背後には何が存在したならば、「わかりやすい」という認識は成立可能となるか。同様のことを、「わかりにくい」についても考える必要がある。

「Xはわかりやすい」「Xはわかりにくい」というとき、「私はXがわかった」という、そのような認識状態に私が到達したという事態が、その認識において必然的に観念される。というのも、「わかりやすい」「わかりにくい」という認識は「わかった」という状態へ到達するまでの主観的、体感的な難易度に対する表明であるからだ。「私はXがわかった」という事態を想起し、そのような事態に到達できたかどうか、到達できたとしてその過程はスムーズであったかどうか、それら結果および過程についてどのような認識を抱いたかに応じて、私達は「わかりやすい」「わかりにくい」という認識のいずれかを抱き得る。

「私はXがわかった」という認識状態へと到達したという認識が成立し、かつ、その到達までの過程は容易であったという認識までもが成立したのなら、私達は「Xはわかりやすい」という認識を抱き得る。対して、「私はXがわかった」という認識状態へ到達したという認識は成立したものの、その過程は甚だしく困難であったという認識が同時に成立したとき、私達は「Xはわかりにくい」という認識を抱きうる。また、そもそも「私はXがわかった」という認識自体が成立しなかった場合にも、「Xはわかりにくい」という認識を抱きうる。

ところで、「わかりやすい」「わかりにくい」という認識の背後に「Xがわかった」という認識状態への遷移があるとするなら、「Xがわかった」という認識状態の手前、すなわち「Xがわかった」という認識状態へ遷移が発生する前に私達が抱く認識状態が存在しなくてはならないが、その状態に対応するのが「Xがわからない」という認識である。

「Xはわかりやすい」「Xはわかりにくい」という認識は、その前提として「Xがわかった」「Xがわからない」という2つの認識状態の想起を必要とする。初期状態は「Xがわからない」であるが、そこから「Xがわかった」という認識状態へと容易に遷移できたと認識したとき、「Xはわかりやすい」という認識の成立条件が満たされ、「Xはわかりやすい」という認識を抱きうる。他方、その状態遷移が困難であった、あるいはその状態遷移が成功しなかったとき、「Xはわかりにくい」という認識の成立条件が満たされ、「Xはわかりにくい」という認識を抱きうる。

すなわち、「Xはわかりやすい」「Xはわかりにくい」とは、「Xがわかった」「Xがわからない」という2つの認識状態を行き来する状態遷移に対する認識である。

「わかりやすい」「わかりにくい」の構造

「わかりやすい」「わかりにくい」という認識の対象

「わかりやすい」「わかりにくい」の観測対象が自らの認識状態の遷移に対する認識であるならば、「Xはわかりにくい」「Xはわかりやすい」という認識がその認識対象として取るのは、Xではなく、もっぱら自身の認識そのものであると言えるだろう。すなわち、「Xはわかりやすい」「Xはわかりにくい」という認識は、その文面とは裏腹に、Xそのものについてはなんら言及していないのである。

そのように考えるなら、「Xはわかりやすい」「Xはわかりにくい」という認識はもっぱら主観に依存するものなのか、はたまたXの性質に由来するものなのかという問には結論が出せる。「わかりやすい」「わかりにくい」いずれも、Xを認識する主体の内面に対する認識であるのだから、その構成材料は全て主観であり、「わかりやすい」「わかりにくい」は全く主観にのみ依存し、Xについては実態として何一つ語らない認識である。

「Xはわかりやすい」「Xはわかりにくい」という言及は、一見するとXについての言及のようでありながら、実際はXについて言及していない。 これらの言葉が実際に言及しているものは、「理解していない」という認識から「理解した」という認識へ遷移した、という認識の体験的難易度である。 このことは、言語表現ではなく「わかりやすい」という認識それ自体の構造・性質に由来するものであるから、それはもはやXへの言及たり得ない。

「わかりやすい」「わかりにくい」の状態遷移は何によって発生するか

「Xがわからない」とき、私達はいわゆる「問い」をいくつか抱いた状態にある。その疑問は、いくつかの形態を取るが、大別して「定形の問い」「部分定形の問い」「不定形の問い」の二種類に分けられる。

「問い」は一般に「XはYであるか」という形式にまとめられるが、このXとYの両方が明確に形式化されたものを「定形の問」と呼ぶことにする。他方、XとYの少なくとも一方が不明瞭で言語化できていない状態の、すなわち定形になっていない状態の問を「不定形の問」と呼ぶことにする。 例えば、「デカルトの方法的懐疑とは、確実なものを見つけるために少しでも疑う余地のあるものは全て不確かなものとみなす方法ということなのだろうか」という問は、「X = デカルトの方法的懐疑」「Y = 確実なものを見つけるために少しでも疑う余地のあるものは全て不確かなものとみなす方法」という形で定形化されている、「定形の問」である。 他方、「デカルトの方法的懐疑とはなんなのか」は、Xは定型化されたものの、Yが不定形であるような「不定形の問」であり、「少しでも疑う余地があるものは全て疑うという方法は、一体誰がどのように提唱したものなのか」とは、X/Yの一方のみが定形であるような「部分定形の問い」である1

不定形な問とはなにか。それは、私達がしばしば抱く「しっくりこない」「上手くいえないが、なにかもやもやする」というような、そしてその違和感故に「わかった」という認識を抱くことができずにいるような、そうした問である。そもそも問う内容もわからず、問うべき対象もわからない、「XはYであるのだろうか」のXもYも明確に言及できない、「わからない」部分が確実に存在するもののそれがどこの何なのかが明確にできない、そのような問が、XもYも不定であるような「不定形の問い」である。

Xについて認識したとき、私達はしばしばこれら「定形の問」と「不定形の問」をいくつかその内心において抱くことがある。これら問いが数多く内心に浮かべば浮かぶほど私達は「わかった」という認識状態から離れ「わからない」という認識状態へ近づき、それらが解消されれば解消されるほど「わかった」という認識状態へ近づいていく。これらの問いがそもそも少数しか発生しないのであれば、私達はより「わかった」という認識状態に近い状態からXについての分析を始めることができる。 これらの問いが発生するのは内心においてであり、Xに対してどれだけの、どのような内容の問いが浮かぶかは一様ではない。故に、同じ対象を見たとしても、より多くの問いが浮かんだ人間は「わからない」という認識状態に近づき、浮かんだ問いが少ない人間は「わかった」という認識状態へ近づいていく。

注意しておくべきは、こうした問いの発生と解消を通じて遷移する「わかった」と「わからない」は客観的なものではなく、あくまでそれらの問いを抱いた当人の認識においてである。多くの問いが浮かんだからといってXについてより少ない知識と浅い理解しか持っていないとは限らないし、浮かんだ問いが少ないからといってXについてより多くの知識と深い理解を持っているとも限らない。むしろ、Xについて理解が浅いが故に潜在的な問題に気づくことができず、それゆえに少ない問いしか抱かずに済む、という場合もありうるし、逆に、Xについて理解が深い故に様々な問題や関連事項が浮かび、それらが多数の問いを生み出すという場合も有る。 ref. ボビン論文 「わかりやすい」「わかりにくい」は、どこまでいっても自身の主観のみに依って構成されている認識であることに留意。

ところで、こうして内心に抱いた問いが「わかった」「わからない」間の状態遷移に与える影響の程度は一様ではない。問いが不定形に近ければ近いほど、「わからない」へと認識状態を引きつける力が強くなる。不定形な問いが最も「わからない」へ引きつける力が強く、逆に定形の問いはもっとも力が弱い。部分定形の問いはその中間にある。

実際、「定形の問い」として浮かぶものは一つも無いにも関わらず、どうにも言葉にできない「不定形の問い」が心の中を漂うが故に、全く「わかった」という認識を抱くことができずにいることがある。定形の問いや部分定形の問いが解決したとしても、不定形の問いが一つあれば、それだけで私達は「わからない」という認識状態へ強く引っ張られてしまう。 逆に、不定形の問いを抱かずに済み、定形の問いしかその内心に無い場合、その定形の問いさえ解決すれば、私達の認識は「わかった」へと到達する。「なるほど、そういうことか」という納得から、私達の自己認識は「わかった」へと到達し、「疑問が解消された」状態となる。 部分定形の問いは、不定となっているXないしYについて回答が与えられればそれで一気に解決へ到達することもあるが、定形の問いへと変化して引き続き「わからない」への影響力を残すこともある。この意味で、部分定形の問いは不定形の問いと定形の問いの中間程度の影響力を持つと言って良いだろう。

状態遷移の容易さあるいは困難さについて

不定形の問い、部分定形の問い、定形の問いといった各種の問いがその内心に抱かれたとき、私達は「わからない」という認識状態へと傾いていく。しかし、それらが解消されたり、不定形や部分定形の問いが定形の問いに近づいていけばいくほど、問いの影響力は薄れ、「わかった」という認識状態へと近づいていく。

このことから、状態遷移を「容易である」と認識するか「困難である」と認識するか、すなわち「わかりやすい」という認識が成立するか「わかりにくい」という認識が成立するかを分ける要素として、これらの問いがどのように解消ないし定型化されるかが関わると考えられる。

多くの問いが速やかに解消されていけば私達の認識はよりスムーズに素早く「わかった」へ近づいていくし、不定形の問いが速やかに定型化されていった場合も同様である。これによって認識状態が速やかに「わかった」へと遷移していけば、私達はその認識において「わかった」という状態へと遷移することが容易であったと認識することが可能となり、現にその状態遷移が容易であったと認識されれば、私達は「わかりやすい」という認識の成立条件を充足する。 逆に、問いがなかなか解消されず、かつ、不定形の問いを定型化していくことも覚束なければ、私達の認識はそれら問いが持つ引力によって「わからない」という認識状態により長くとどまることとなる。この事態が解消されるまで時間がかかれば、私達は「わかった」という認識状態への遷移が困難であったと認識し得るし、そもそもその事態が解消できなければ「わからなかった」「わからない」という認識状態にあるため、今度は「わかりにくい」という認識の成立条件が成立することとなる。

まとめ

「わかりやすい」「わかりにくい」は「わかった」「わからない」という認識状態の遷移に対する認識である。その状態遷移が容易だったという認識が「わかりやすい」であり、逆に困難だったという認識、あるいはそもそも状態遷移ができなかったという認識が「わかりにくい」である。 そうした状態遷移は、いくつかの「問い(不定形の問い、部分定形の問い、定形の問い)」が発生する・解消する・定型化する・不定形化することによって生じる。問いがより多く発生し、より不定形に近づくほどに私達は「わからない」という認識状態へと近づいていく。逆に、問いがより多く解消し、より定形に近づくほどに私達は「わかった」という認識状態へと近づいていく。 また、問いの解消や定型化が速やかに行われるほどに、その状態遷移は容易であったと認識されやすくなっていく。すなわち「わかりやすい」という認識が成立する可能性が上昇していく。 逆に、問いの解消や定型化が遅延するほどに、その状態遷移は困難であったと認識されやすくなっていく。すなわち「わかりにくい」という認識が成立する可能性が上昇していく。

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  1. この問を「X = 少しでも疑う余地があるものは全て疑うという方法」であり、Y が不定形であると見なしても構わない。 部分定形の問いについて、何をXとして何をYとするかはそれほど重要ではない。