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メモ - 「わかりやすい」「わかりにくい」考1

奇妙な用法

任意の対象Xについて、私達はしばしば「Xはわかりやすい」「Xはわかりにくい」と語り、また実際にそう認識する。 この認識は、素朴にはXについての認識であり、またXの性質について語ったものとして捉えられているように思う。

しかしながら、「Xはわかりやすい」「Xはわかりにくい」という認識がXについての認識、またXの性質について語ったものだとすると、 これらにいくつか奇妙な用法が存在している。

「Xがわかりにくくて、理解できなかった」

難解なテキストや説明に直面したとき、しばしば見聞きする用法である。 これは専ら、対象のX(というテキストや説明)が用いている表現や記述について、批判的に語る文脈で用いられる。

あるテキストや説明について、それが「わかりにくくて理解できなかった」、言い換えれば「理解に努力や困難を伴った」あるいは「理解できなかった」という場合、それには二つの原因が考えられる。

  • そのテキストや説明が語る意味内容を理解するだけの前提知識・理解能力が読み手に欠如ないし不足しているため
  • そのテキストや説明が語る意味内容に対して、そのテキストが採用している表現・記述方法が不適当であるため

「Xはわかりにくい」という用法は、もっぱら後者を主張するために使われる。

「Xがわかりにくくて、理解できなかった」という用法の奇妙な点は、「Xの内容を理解していないにも関わらず、Xはわかりにくい表現・記述を用いていると評価している」という点である。 というのも、あるテキストや説明が語る意味内容に対してそのテキストや説明が用いている表現・記述方法が不適当であるかどうかは、本来そのテキストや説明が語ろうとしている意味内容を理解していなければ不可能だからである。

Xの説明として表現・記述方法が不適当であるというためには、Xの意味内容に対してその表現・記述方法が冗長である、Xの意味内容に対してその表現・記述方法が対応していない、Xの意味内容に対して矛盾を含むなど、なにかしらXの意味内容と実際に用いられている表現・記述方法を比較して初めて可能だからだ。 一見して冗長に見えたとしても、表現・記述方法が対応していないように見えたとしても、矛盾を含むように見えたとしても、現にそれらが冗長であり非対応であり矛盾であるかどうかは、それがXの意味内容に対してまさにそのようであることが確認される必要があり、そのためにはXの意味内容を理解する必要がある。さもなくば、自身の能力不足・欠如に由来する理解の困難さを、Xの形質に由来するものとして取り違えかねない。

にも関わらず、私達は掲題したような用法を使うことができるし、実際に掲題のような認識を抱くこともできる。 Xを理解していない状態で、すなわちXの「わかりにくさ」を認識するための比較対象を持たない状態で、私達は「Xがわかりにくい」ということをどうやって、何を材料に認識したのだろうか。

「Xがわかりやすい」と語った後で、「Xが実際にはわかっていなかった」と語る

私達は時折、Xについてのテキストや説明や図を見て「これはわかりやすい」と語り、またそのように認識することがある。 しかし、その後で何らかをきっかけに「Xがわかったと思っていたが、実際にはわかっていなかった」と語り、またそのように認識することがある。

この用法において奇妙な点は、「わかっていなかった」と後で認識されるということは、すなわち「Xはわかりやすい」と認識した時点でも「わかっていなかった」のだが、では「Xはわかりやすい」と語り認識したそのとき、私達は何について「わかりやすい」と語っていたのだろう、という点だ。

「Xはわかりやすい」と語ること、およびそう認識することもまた、「Xはわかりにくい」と同種の構造と制約を持つ。すなわち、「Xはわかりやすい」と語るためには、本来Xの意味内容と実際にXが採用した表現・記述形式との間に冗長さや非対応や矛盾が無いということが、Xの意味内容と実際の表現・記述形式を比較することによって認識される必要があるはずだ。 しかしながら、「Xはわかりやすい」の後での「Xが実際にはわかっていなかった」と語ることは、実際には「Xはわかりやすい」と語った時点でXについて「わかっていなかった」ということになる。 では、最初に「Xはわかりやすい」と語ったとき、私達は一体Xの何とその表現・記述形式を比較したのだろうか。

「わかりやすさ」「わかりにくさ」はどこに帰属するか

「わかりやすさ」「わかりにくさ」は、一般に「Xはわかりやすい」「Xはわかりにくい」といった形式で用いられる。 これは一見してXが持つ性質ないし特徴について語っているようにも見え、また、実際Xの性質ないし特徴について語るために用いられることもある。

しかし一方で、同一のXについてそれを「わかりやすい」と認識するか「わかりにくい」と認識するかは、必ずしも一致しない。その不一致は、は異なる人物の間においてだけでなく、異なる時刻の同一人物においても発生する。この認識の差異は何に由来するのか。その差異には少なくともXを観測し認識する人間の主観が関わってくることは、「Xはわかりやすい」「Xはわかりにくい」と認識する主体が個々の人間である以上、疑う余地は無いだろう。問題は、その主観がどのように関わってくるかだ。

note: フッサール現象学、超越と内在、間主観性、カント、超越論的観念論

「わかりやすい」「わかりにくい」は全く主観にのみ由来するものであり、Xには帰属しない

すなわち、主観は「わかりやすい」「わかりにくい」という認識に対する全くの発生源であり、それ以外にこれらの認識の材料となりうるものは存在しないとする場合。 もっともらしく思われるが、一方で、「わかりやすい」「わかりにくい」が主観のみを由来するとするなら、なぜ私達は「わかりやすさ」「わかりにくさ」がXに由来するかのように語り、またそのように認識できるのだろうか。 「わかりやすい」「わかりにくい」が全くの主観に由来するとして、では「わかりやすい」「わかりにくい」を構成する主観はどのようなかたちをとり、また、どのような方法でそれらを実現させるのか。その主観の背後にある認識はどのようなものか。 「わかりやすい」「わかりにくい」が全くの主観に由来するのならば、複数の人間が共通して「わかりやすい」「わかりにくい」と評価する現象は、全くの偶然なのだろうか。そのように評価されるXには、そのような評価が発生する傾向を生み出すような性質は、一切存在しないのだろうか。また、これらの認識が全くの主観に由来するというのなら、「わかりやすい」「わかりにくい」について語ることを通じて何かを他者と共有する余地は存在するのだろうか。

「わかりやすい」「わかりにくい」は主観に由来する部分と対象に由来するもの、両方を持つ

すなわち、「わかりやすい」「わかりにくい」とは、個々人の主観と対象「それ自体」が持つ性質の混合によって生じるものであるとする場合。

まさに対象「それ自体」が持つ性質・特徴があり、それが「わかりやすい」「わかりにくい」という認識の材料として含まれるならば、複数の人間が共通して「わかりやすい」「わかりにくい」という認識を抱くのは、まさにその対象「それ自体」が持つ性質に由来するものと考えられるかもしれない。 しかし一方で、その一致が単なる偶然な認識の一致によらないという可能性は、どのようにして保証されるのか。 仮にそうした対象「それ自体」の特徴・性質があったとして、その性質はどのようにして分析されうるのか、あるいはそもそも分析可能なのか。換言すれば、「わかりやすい」「わかりにくい」という認識を構成する諸々の材料の内、どれが主観にのみ由来するもので、どれが「それ自体」の性質に由来するものか、それを分析して峻別できるのだろうか。「それ自体」の性質・特徴が認識の材料となることはあっても、「それ自体」の性質・特徴を認識し語ることはできるのだろうか。

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